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「ギタリストだった僕」第5話 専門学校後編

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一度きりのはずが

ライブを手伝うことになった僕だが、本当に一回限りの手伝いのつもりだった。

ちなみに、この頃になると専門学校の同学年の間では、ほぼヒエラルキーが出来上がっており、実力のない人たちは淘汰され消えるか空気のような存在になっていた。
実力のある者たちがメンバーを奪い合う。殺伐とはしていないが、そんな空気だったかもしれない。

手伝うことになったライブはJUDY AND MARYのコピーだ。
ドラムを叩くことになったのはスタジオミュージシャンも兼ねていた先輩で機械のように正確なドラムを叩く人だった。とても良い人だったが少しオカマっぽかった。
ボーカルは僕に直接お願いしてきたY、ベースはとんでもなく強面のTだ。

何の滞りもなくライブを終えてすぐ、Yから「実はもう一回ライブが決まってるから手伝ってほしい」と伝えられた。久々のライブで気分が良かった僕は二つ返事でOKした。

2回目のライブ

2回目のライブは約2ヶ月後だった。この時、知らない間にドラムは先輩から同学年のMに変わっていた。
僕も含め、全員学校の実力ヒエラルキーでは上位だった。

2回目のライブを終えた頃、4人はすっかり仲良しになっていた。
誰からともなく「もう一回ライブやろう」と言い出した気がする。そんな時、ドラムのMが「実はもう曲作ってあるんだ」と言い出した。

Mの自宅で集まっていた時にその曲を聞かせてもらった。今思えば荒削りではあったが、メロコアにどっぷり浸かっていた僕には清涼剤のようにとてもPOPで綺麗な曲だった。

あれよあれよという間にアレンジも進み、3回目のライブはJUDY AND MARYのコピーに加えオリジナル曲も披露する形となった。
全員そこそこの実力があるバンドだったため、評判がよかったのを覚えている。他のメンバーも気分がよかったようで、この流れのまま次のライブもやろうと約束した。

この頃のメンバー間のパワーバランスが一番良かったのかもしれない。

作曲、そしてライブ

ライブをやるのならやはりオリジナル曲をやりたい。
ドラムのMと僕で曲を作りアレンジをした。僕はなんとかメロディーは思い浮かぶが、曲のアレンジがとにかく苦手で、その作業のほとんどは他メンバーにアイデアを出してもらう形だった。

1回のライブに耐えうる曲数ができた頃、僕たちはとにかくライブばかりしていた。
近場ではあるが地方でもライブをやったりと、多い時には月に10本以上のライブをしていた。
こうなってくると僕たちの頭の中は「絶対デビューして売れてやる」という野望でいっぱいになってくる。

しかし、この頃になると専門学校も卒業が近づいていた。
卒業後の身の振り方が決まっていない焦りはあったが、とにかくこのメンバーと一緒にオリジナル曲でライブをするのが楽しかったし、絶対に成功すると思っていた。
卒業しても売れるまではアルバイトをしながらバンドをやればいい、そんな考えだった。

そんな僕たちに卒業直前、突如転機が訪れる。

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