琥珀の夏/辻村深月 〜読書感想文〜
夏と言われれば、何を思い浮かべますか?
という質問を、過去に何度かされたことがある。
私は去年から、この質問に「琥珀の夏だ」と答えることにした。
夏の終わりを感じたときの、あのなんとも言えない切なさ。
この後の人生、あと何十回も夏を体験するだろうに、まるでもう二度と会えないものとの別れ告げるかのような寂しさ。
その寂しさを感じる前に、
夏がまだまだ終わらないうちに、
琥珀の夏を読みたいのだ。
琥珀の夏で夏を感じるのではない。
夏だからこそ、琥珀の夏を感じたいのである。
琥珀の夏の物語
30年前の"あの夏"
琥珀の夏の物語について、私なりに話そう。
30年前の夏休み、小学生だったノリコは「ミライの学校」の夏季合宿に参加する。
成績はいいがいまいち目立たないノリコは、学校では"地味な子"とカテゴライズされていた。
足が速かったり、先生とくだけた話し方をできる子がかっこいいとされる時代。
そんな時代の真っ只中にいるノリコに、ミライの学校での出来事は衝撃を与える。
なにをするにも子どもたちが中心となり、自分たちの思うように行動する。なにかが起こればみんなで考える。できない人、苦手な人のことを置いていかない。ここでは人目を気にしないで、きちんと真面目に話していい。
思いついた意見を言った後、「やっぱりわかってるんだ」「できるんだ」と嫌味な目で自分を見てくる人はだれもいない。
河原での水遊び
泉の水で作ったかき氷
みんなでやるスイカ割り
ここはすごく特別な場所なんだ。
そんなノリコをさらに引き込んだのが
同い年の少女・ミカだ。
彼女は夏季合宿だけでなく常に学校の学び舎で過ごしており、精神的に大人な一面を垣間見せる。
同い年のはずなのに、周りをよく見ており話し方も明瞭で、まるでお姉さんのようなミカ。
ノリコにも優しくかわいい笑顔を見せてくれる彼女が、ある日ノリコに言うのだ。
彼女が見せた寂しげな表情の答えを、ノリコが知るのはずっと後のこととなる。
今、"この夏"
かつて自分が夏季合宿に行った学び舎の広場にあたる個所で、白骨化した女児の遺体が発見される。
法子はとっさに思う。
「ミカちゃんじゃないといい」と。
ニュースを見る限り年の頃はぴったりだ。自分が最後にミカと出会った年を考えると、ミカだったとしてもおかしくない。
友達だと話したあの日からもう30年。
顔も声も記憶から薄れてしまった今、自分はミカの友達と言えるだろうか。
これだけニュースで取り上げられてはじめて、ミライの学校がいかに周囲から悪評を集めていたかを知った。
カルト集団。
宗教団体。
怪しいところ。
ミカたちとの思い出の詰まったあの日の夏を、なにも知らない人に言われたくはない。
でもこの年になった自分が初めてミライの学校のことを知ったら、悪い印象を持たずにいられるだろうか。
過去と現在の思いの狭間に悩みながらも、事件の真相に近づいていく自分自身を、法子は見つめ直す。
あの日、自分と友達であることを必死に確認しようとした彼女は、今、どこにいる?
総評
本の帯に書かれている『「ずっと友達」って言ったのに。』という一言が、ずっしりとのしかかってくる。
あの時だからできたことは?
今じゃないとできないことは?
ずっと友達、という言葉が持つ力とは?
自分に不幸が訪れたとき、たった一言
「あなたはなにも悪くない」とだれに言ってもらいたい?
夏のジリジリとした暑さや日差しではなく
夏のある夜、冷房もいらないほど涼しい風がサッと通り抜けるようなそんなときに、この物語を思い出す。
夏の思い出のひとつとして、間違いなく心の中に琥珀色を残す作品である。
番外編-現実味のある不幸と気づき-
これは琥珀の夏に限らず辻村作品においては共通して言えることだが、作中で描かれる主人公を襲う不幸な出来事が非常にリアルなのだ。
主人公を襲う不幸といえば、両親の死、恋人の死、壮絶ないじめ、勘違いによるすれ違いなどが代表的であろう。
しかし主人公・法子に降りかかる不幸は
ご飯を炊き忘れることである。
日常的なうっかりであってそんなものは不幸と呼ばない、とは言い切れない。
その日法子は、仕事に関する悩みを抱えていた。3歳になったばかりの娘は、イヤイヤ期を迎え言うことを聞かず、床一面に牛乳をこぼしてしまう。さらには調理中に電話がかかってきたことでおかずは食べられないほどに焦げ、買い置きした食品もない。
牛乳をこぼした娘を強く叱ってしまい、火がついたように泣き出す娘を前にして、その上さらに、ご飯が炊けていないという誰にでもあり得るからこそわかりやすい不幸が襲う。
どこから手をつければいいかわからない焦燥感と、余裕のない自分への失望。
しかしその状況になり、初めてわかる感情。
教育、愛情、都合、選択。自分にとって本当に大切なものとはなにか。それはたった一言で表せるほど単純なものなのか。
誰もが共感し得る状況から不幸と気づきを同時に叩きつけられる、印象深いシーンである。