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宗教について② 「パスカルの賭け」への批判を検討する

 皆さまこの記事を訪れて下さりありがとうございます。

 前回に引き続き、このシリーズでは宗教について考えることを大きなテーマに、具体的な題材としてまず「パスカルの賭け」を扱っております。

 前回、第一回の記事はこちらです↓

 さて、前回では「パスカルの賭け」の内容について説明と検討を加えながらお話ししましたが、その要旨は簡単に言うと「神が本当に存在するかどうかは置いておいて、とりあえず神を信じていた方が何かしら得をする可能性が高い」というようなものでした。あまりにもざっくばらんな言い方かもしれませんが、わかりやすく言うとこんな感じになるのでは、と私は思います。

 こんなストレートな主張をすれば当然かもしれませんが、「パスカルの賭け」は同時代人のみならず後世の人間からも、そして多方面から批判を受けているようです。「パスカルの賭け」への批判を具体的にまとめ上げたような文献は私が探した限り見つからなかったので、典拠に確証がないwikipediaに頼ることにはなりますが、それを見るだけでも「まぁそう批判されても仕方ないよな」と思うのが私の正直な感想です(興味のある方はwikipediaの「パスカルの賭け」のページを参考までにご覧ください)。

 枚挙に暇がないので一つひとつの批判を取り挙げることはここではしませんが、私がそれらの批判の中で最も重要だと考えるのは「キリスト教以外の宗教でも同じことが言えるんじゃないか」という批判です。

 前置きが長くなりましたが、今回はこの視点から、「パスカルの賭け」が持つ強みと弱点、それに由来するある種の危険性について、私が考えるところをお話しできれば、と思います。

◎「パスカルの賭け」の前提と性質

・「パスカルの賭け」はキリスト教信仰を前提としている

 「パスカルの賭け」が具体的に書き記された『パンセ』という著作ですが、これはもともと生前にパスカルが書き残したノートや思索を記したメモを、彼が39歳の若さで亡くなった後に整理しまとめ、彼の死後に世に出された書物です。そして彼自身が深めていた思索というのは、主にキリスト教を擁護することを目的としたものであった、とされています。

 パスカルは早くから数学や幾何学といった、今日自然科学と呼ばれる分野で神童ぶりを発揮していた人物ですが、同時にジャンセニズムと呼ばれる、17世紀以降ヨーロッパで流行したキリスト教思想に接近し、神学者としての活動を行っていた人物でもあります。彼がキリスト教擁護の思索を行っていた背景には、このような神学者としての活動があることがわかります。

 ですので『パンセ』という書物全体を通してみたときに(私は通読出来ていませんが)、あちこちにキリスト教信仰や神についての言及が見られます。このことからも、彼が「賭け」で言及していた信仰や神というのは、まずキリスト教におけるそれを前提としていた、と言えるのではないかと思います。

・「賭け」が持つ強力な性質

 ですが、前回の記事で図表を用いて確認した際のことを思い返してみると、この主張の裏付けはキリスト教という前提を抜きにしても、非常に筋道が通っているというか、とても強力な説得力があることが理解できるのではないでしょうか。「神」や「信仰」といった宗教にかかわるフレーズこそ登場するものの、たとえばそれで話をゴリ押したりすることはなく、もはや誰にでも理解できるレベルでの淡々とした説明が続きます。最終的に、「神を信じるか否か」という選択を人間は行う必要があるわけですが、その際に考慮すべきことは「『損か得か』と問われれば基本的に人間は得の方を選ぶ」という、疑う余地のない人間の性質のみです。

 このことから言えることが一つあります。それは、「パスカルの賭け」はすべて論理的に説明のつく範囲内での話しかしていない、ということです。……①

 私自身、今まさに論理学を勉強している最中ですが、厳密に吟味され正しく運用される論理というのは大変に強力です。世界には様々な考え方や価値観をもつ文化圏や言語圏が存在するわけですが、少なくとも論理学で扱われる厳密な論理はどこに行っても通用しますし、異なる文化的出自を持つ人々が独自に同じ論理的な結論に至ることも多々あります。

 有名なもので三段論法という推論の形式があります。これは古代ギリシアのアリストテレスがまとめあげたものとして紹介されることが多いですが、古代インドでも独自に同じ内容である「五段論法」なるものが発見されていたことが知られています(日本語では「三段論法」と呼ばれますが、正しくは三段以上あっても全く問題ないものなので、三段も五段も実質的に同じ発見であると言えるわけです)。

 「論理的に説明がつく」と私たちが考えることと「論理的に正しい(妥当な推論である)」ということは必ずしも一致するわけではありません。私たちが論理的であると直感的に判断しても、実は本当は論理的に正しくない(非妥当な推論である)場合は意外と多いものです。モンティ・ホール問題などが良い例だと思います。なのでこの「パスカルの賭け」の話の場合も、簡単にこれを論理的だ、と言うのは少々危ういことではあります。しかし吟味してみても、理屈そのものに何か欠陥があるとは考えにくいのではないでしょうか。

 そしてもう一つ重要なことは、「パスカルの賭け」の話の中に登場する「神」と「信仰」の性質は、キリスト教のそれに限定されるものではない、ということです。……②

 どういうことかというと、それぞれ具体的な内容や説明を欠いているのです。「神」は「信じれば人間に恵みを与え、信じなければ罰を与える人間以上の存在」程度の意味しか持たず、「信仰」も心の中で信じることを指すのか、それとも修行や喜捨などの具体的な行動を伴う行為を指すのかはっきりとしていません。そうした曖昧さだらけであるのに、「パスカルの賭け」の理屈は成立してしまいます。

 上述した①、②の性質に鑑みて、次のようなことが言えるのではないでしょうか。宗教を「特定の神性に対する信仰の体系」であると仮定すると、多くの宗教において「パスカルの賭け」と同様の主張が成立してしまう、と。

 おそらく、このパスカルの主張が強力な説得力をもって訴えかけてくるのは、上で述べた一般性に加えて、「宗教的な話をしているのに宗教的な概念や思想抜きに説明ができてしまう」という特徴が背景にあると言えるのではないでしょうか。

◎強力さゆえに危険でもある主張

 もちろん、この地球上に存在するすべての宗教についてこの内容が成立するわけではありません。例えばゾロアスター教のように、「善神」と「悪神」が登場する宗教の場合、ただ単に「神を信仰した方が得をする可能性が高い」とは言えなくなります。また日本人に馴染み深い仏教の場合にも、大乗仏教の教えの中にはパスカルの主張と相性のよいものもありますが、初期の仏教の教えに忠実に仏教を理解するならば、そもそもここでいう「神」のような存在を重視しないので相性が悪くなります。また、ヒンドゥー教のような多神教の場合、神格同士の関係のために、「神一般」を信仰すればよい、ということにはなりません。

 この例から見てみても、パスカルの主張と同様のことがらが問題なく成立するのは、どちらかというとキリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの一神教であるという傾向がわかります。

 ただ、この事実こそが「パスカルの賭け」の強みである一般性が危険なものとみなされる、つまり諸刃の剣となり得る所以でもあります。というのも、一神教は多神教と比較すると他の宗教に対する排他的性格が強く、自らの信仰の絶対的な正当性を第一に主張する傾向が見られるからです。

 今日、各国の憲法において思想・信教の自由が保障される流れにありますが、あくまでそれは個人の権利についての話であって、宗教そのものの正当性の問題に決着をつけているわけではありません(そもそも国家にそのようなことを行う能力も権限もありません)。歴史上、宗教対立が原因となる衝突・紛争・事件は数多く発生しており、それは今日もなお続いています。

 私のような特定の宗教を信仰している自覚のない人間には理解しづらい感覚ですので、あくまで推測の話にはなりますが、相互に自らの正当性を主張する相容れない宗教同士で、まったく同じ理屈でそれぞれの信仰を正当化することが可能であるという事実は、それぞれの宗教を篤く信仰する人々からすれば大変に都合の悪いことであるはずです。なぜなら、自身の信仰をこの理屈で正当化しようとすると、同時に相容れない教義を持つ相手の宗教の正当性を認めることになりかねないからです。

 これが、「パスカルの賭け」が強力であるがゆえに危険でもある、と私が考える理由です。極論を言うと、「どの宗教も正しい」というおかしな結果を導いてしまう可能性があるのです。

◎まとめ

 以上のことから、「パスカルの賭け」の主張の内容は、一見、神への信仰を肯定する内容でありながら、現実に存在する個々の宗教同士の関係に落とし込むと「都合が悪い」事態を引き起こしかねないものである、ということが言えると思います。

 今回の記事はここまでです。次回は「なぜこのような、宗教にとって都合の悪い事態が起こるのか」ということを切り口に、人間が考える宗教という枠組みそのもの、あるいはその問題点についてお話しできれば、と考えております。

 長文となりましたが、ここまでお読みくださりありがとうございました。間違いのご指摘や、ご意見がございましたら是非コメントをいただけると嬉しいです。

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