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宗教について① 「パスカルの賭け」

 自己紹介文を除くと、これがアカウント再開後の初投稿となります。

 近頃私は論理学に興味関心を持っており、放送大学から出ている『記号論理学』や少し背伸びをして数理論理学の本を使って、スキマ時間でチマチマと勉強を続けています。私が論理学に興味を抱いた経緯を一から説明すると紆余曲折があり大変回りくどいことになるので割愛しますが、現状の目標は「ゲーデルの完全性定理」と「ゲーデルの不完全性定理」をきちんと理解することにある、とだけ申し上げておきます。

 さて、そうした学習の中でふとしたことから脇道にそれて、当初の内容とは離れた思索に没頭してしまうのが私の悪い癖なのですが、今回はそうした思索の過程から一つ、気になるというか、問題提起的な内容を記事にできれば、と思っております。初めは宗教についてをテーマに記事を書きたいと思います。長文になりますので数回の記事に分割しますが、初回は「パスカルの賭け」と呼ばれていることがらについて、大まかに私が理解している内容について皆さまに知っていただければ、と考えています。

◎「パスカルの賭け」とは

・概要

 「パスカルの賭け」というのは、17世紀フランスの哲学者・思想家ブレーズ・パスカル(1623~1662)が、著作『パンセ』の中で書き記した、人間の神への信仰に対する一つの態度のことを指します。ざっくりとその内容を言い表すと、「神の存在を理性によって証明できないとしても、神が実在することに賭けたところで何かを失うリスクはなく、むしろその方が得るものが大きい(だから神が存在することに賭けた方が得をする可能性が大きい)」という内容になります。

 「神の存在証明」というのは哲学者や宗教家、思想家の経歴や業績を見てみると、たびたび登場することがあるテーマなのですが、私の知る限り「神が存在する」ことを証明できた例も、「神が存在しない」ことを証明できた例もありません。これはあくまで私の直感にすぎませんが、現在人間が持っているあらゆる知見を総動員したとしても、おそらくこの内容を肯定的であれ否定的であれ証明し、断定することは不可能なのではないかと思います。

 パスカル自身もそのことに気づいていた、あるいは無理であると認めはしないまでも非常に困難なことであると考えたのか、彼は他の思想家たちとは異なるアプローチをとったことが、この「パスカルの賭け」の内容から推察できます。つまり、神が存在するかどうかは一旦保留して(あるいは不確定なものとして)、人間が信じる/信じないのいずれかの選択肢をとった場合の損得を考えようとしたわけです。

 神様の話をするときに人間側の具体的な損得をまず問題にする、というのは何だか失礼な態度のようにも思えますが、パスカル自身の来歴や業績を見ると納得が行く部分もあります。パスカルは数学者としての一面を持ち、あのフェルマーと共同で西欧数学における確率論の基礎を作り上げた人物でもあります。逸話として、この確率論自体、当時の賭博の勝率を検討するために考案された、という話もあり、「損得」ということがらについてパスカルはそこそこ現実的な感覚を持っていたようにも思えます。また「5ソルの馬車」という、今でいう路線バスのような業態の乗合馬車を考案して実際に運行を行うなど、実業家としても先見の明があった人物です。ですから、パスカルが神の問題について損得を先に考えた、というのは不自然な話ではないように思えます。

・説明

 実はこの「パスカルの賭け」、言葉だけで言われると素直に受け入れがたい印象を持つものですが、図表の形で表現してみると思いのほか「なるほど」と思えるような内容です。この話の中で想定される「場合」は、「神が存在する/しない」、「神を信じる/信じない」、つまり2×2で4通りしか存在しないので、表の形で表すことが簡単です。以下、wikipediaに記載があったものに、私なりのアレンジ(というか簡略化)を加えた表を載せますのでご覧ください。

$$
\begin{array}{|c|c|c|} \hline
&存在する&存在しない\\ \hline
信じる&a&b\\ \hline
信じない&c&d\\ \hline
\end{array}
$$

 この4通りの場合にそれぞれもたらされる結果が、表の中のそれぞれa,b,c,dに当たります。この4つの結果について検討を行えば、「神を信じる/信じない」場合の損得について、一通りの結論を得ることができる、というわけです。

・検討

 それぞれの場合を検討してみましょう。

 a:「人間が神を信仰し、そして神が実在した場合」にもたらされる結果です。言うまでもないことかもしれませんが、「パスカルの賭け」の話に登場する神や信仰はキリスト教のそれを前提としているため、この場合に人間が損をすることは教義上あってはならないことのはずです。つまりここでは具体的な内容はともかく「得」をする、ということになります。

 b:「人間が神を信仰し、そして神が実在しなかった場合」にもたらされる結果です。この場合、残念ながら人間に「得」をもたらす神が存在しないことになりますが、かといって人間の側が「損」をすることはない、ということになるかと思います。つまり「損」も「得」もしません。もし仮に、信仰心が空回りをしたという結果を「損」と捉えるなら、話は変わりますが。

 c:「人間が神を信仰せず、けれども神が実在した場合」にもたらされる結果です。宗派によって見解は異なるかと思いますが、厳格なキリスト教の場合、この結果は要するに死後の「地獄行き」を意味することになるかと思います。これは「損」であるとしか言いようがありません。

 d:「人間が神を信仰せず、かつ神が実在しなかった場合」にもたらされる結果です。この場合、信仰しなかった人物は正しい判断をしていたことになりますが、かといってその正しさゆえに「得」をすることもなければ「損」をすることもありません。

 以上の検討をもとにすると、上の表は以下のように書き換えられます。

$$
\begin{array}{|c|c|c|}\hline
&存在する&存在しない\\ \hline
信じる&得&0\\ \hline
信じない&損&0\\ \hline
\end{array}
$$

 便宜上、「損も得もない状態」をゼロと表記しました。この表の中で人間が選択できるのは横のライン、つまり神を信仰するか否か、ということになります。その場合、期待される結果を考えてみると、「神を信じた場合は得をするか何もないかである」「神を信じなかった場合は損をするか何もないかである」という結果となります。「人間は『損か得か』と問われれば得をとる」ということを前提としますが、この結果から導き出されるのが、冒頭のパスカルの主張であるわけです。

◎まとめ

 実際のところ、『パンセ』内の記述を見るとパスカルはこの4通りの結果すべてについて言及しているわけではありません。あくまで後世の人間がパスカルの提示した条件の下で考えるとこのようになる、というだけです。ですから表において「0」とした部分についてパスカルがどのように考えていたかなど、不明な点が多いことも事実です。ただ、存在するかどうかが不確定な対象に対するアプローチを考えるだけで、実際上の損得勘定が可能である、という、この「パスカルの賭け」の性質は大変に面白いものであると私は感じます。
 もちろん、この主張に対してはさまざまな方面からの批判があります。「他の宗教でも同じことが言えるんじゃないか、その場合の宗教間の整合性はどうなるのか」とか「多神教の宗教においてはそうは言えない」などいろいろです。

 次の記事では、「パスカルの賭け」に対する批判について取り挙げ、なぜそのような批判が起こるのか、ということについて検討を試みます。

 ここまでお読みくださりありがとうございました。間違いのご指摘やご意見がありましたら是非コメントをお願いいたします。

補足

 今回の記事では一貫して「損」「得」という表現を用いましたが、これは便宜的なものであることをご理解ください。「よいこと」「よくないこと」のセットとどちらを使おうか迷いましたが、図表にする都合でこの表現を採用いたしました。


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