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白い世界の話

 はるか北、白い世界が映る。
 黒いはずのダウンコートは、斜めに降り続く雪でくすんだ鼠色に見えた。白いヘルメットから細く険しい眼が覗く。結ったの髪の毛から落ちたひとふさに、ばたばたと頬を打たれていた。断崖絶壁、下から吹き上げる風を全身に受けているように見えた。
「今年いちばんの、大雪です、交通機関に、大きな、影響が出ています」
 途切れ途切れになる女性キャスターの声を聞き、4歳の娘が腰を浮かす。1歳から使っているキッズチェアのステップに立ち、リビングの掃き出し窓をつま先立ちで見る。
「雪、娘ちゃんのところは降ってないのにねぇ」
 窓の外は曇天。ときたま、街路樹の葉を揺らす程度の風が吹いていた。
 語尾の沈みとともにカタンと座り直し、透明なグラスに入ったカルピスを飲み干す。

 数ヶ月前の夏、はじめてカルピスの原液を薄めて飲んだ娘は、首を傾けて、なぜだか恥ずかしそうに「おいしーい」と言った。
 あまりにも甘い顔をするので、私と夫はつられてカルピスを飲んだ。
 レースカーテンから漏れた光が、リビングの白い床を緩やかに照らしていた。遠く、近くから、ジイジイとからだを振るわせ鳴く蝉の声が聞こえる。つけっぱなしのクーラーは涼やかな風を出し、羽がこうこうと震えていた。透明なガラスコップに柔らかくとろけた氷のふちがカツンとあたる。娘の氷と、夫の氷と、私の氷と。
 それぞれが鳴るたび、ぱらぱらと舞う記憶の細胞が降り積もるような気がした。走馬灯を見ることがあれば、このなんでもない日常がエンドロールで流れるのだろうか。

 夏が終わり秋が過ぎ、冬が来ても、鮮やかな青い水玉のボトルはドアポケットに入れた牛乳と並び、冷蔵庫に溶け込んでいる。
 部屋から見る空はあの夏の日よりも鈍い、煙を焚いたような空だった。
 ちょうど1年前、娘が3歳のときに見た冬の曇も、絞れば何かがしたたりそうな重みがあった。
 保育園の帰り道、クリスマスとお正月の歌を交互に口ずさみながら、ふたりで寒空を見上げた。雲と家々の隙間からわずかにもれた夕日の尾が、娘の輪郭をうっすらと浮き出させる。
「娘ちゃん、雪積もるところまだ見たことないよね〜」
 そうだね、今年は見れるといいね。と、繋いだ手を親指で撫でる。
 寒いね、と笑いながらも子どもの体温はあたたかい。迎えに行くと駆け寄って、私の冷え切った指先を躊躇なく掴む。忍びなくなり聞くと、「娘ちゃんの手、たくさんあったかいから、かかの手あっためてあげるよ」と小さな手が、弱く強く、力を込める。かかはひえそー(冷え性)なんだよね、と笑いながら一歩前を歩む娘の姿は、ただただ繋いだ手の指先を溶かした。
 1年前の冬は、だっこをねだって帰るのが常だったのに。同じ冬でも、当たり前に違う冬がある。隣を歩く娘とは、いつまでこうして手を繋げるのだろう。まだ見えぬ、前触れもなしに訪れる最後の日を思った。
「雪が降ったら、こーんなに大きい雪だるま作ったりしたいんだよね」
 いいね、一緒に作ろうね。と言いつつも、このあたりだとせいぜい雪うさぎが関の山だろうとも思う。
 この地域では、ここ数年雪が積もらない。20年ほど前、中学生の頃に一度だけ大雪に見舞われた。前日の夕方から公共交通機関は止まり、ニュースでは警告が流れた。暗闇に吹雪く灰色の雪。風呂上がりに10センチほど窓を開けると、コオオオと唸る風の音と刺すような冷気が、皮膚をひりつかせた。
 予報によれば、朝には吹雪は止むらしい。自転車では行けないから歩きか、早く起きるのは苦手だ、などと明日を憂鬱に思う反面、くつくつと湧き上がる笑みを抑えきれないまま眠りについた。
 翌朝、玄関から飛び出して吸い込んだ空気は、肺をちくちくと転げまわったあと、色彩が失せた世界についた感嘆へと変わり、白く、ほう、と溶けた。
 滑らないよう足の裏に力を入れ、踏み締めるように歩く。家々の屋根。月極駐車場に並ぶ車。細く小さな節を持つ庭木の枝。電柱から出る釘。すべてが柔らそうな、けれどもぽってりと厚みのある雪に覆われている。
 バイクのエンジン音。人々の話し声。泥の上を走るタイヤ音。どれもが普段よりも小さく、けれど3拍ほど薄くのびて聞こえた。耳がジンジンとかじかんでいるからだろうか。そこかしこに積もった雪が、音を吸い込んでしまったからだろうか。
 積もった雪の表面は、厚い雲の隙間から照らされた朝の光に照らされ、砂糖をまとったようにきらきらと発光していた。手袋を外した指で触ると思いのほかやわらかく、そっと指でつまむと、瞬く間に水滴になった。
 目にしている景色が、圧倒的に美しい。

 赤信号で止まり、娘はまた空を見上げた。
 空を仰ぐその星を宿した瞳に、あの景色を見せることができたら、と願う。
 けれど結局、その願い虚しく、昨年は雪を見ることなく春を迎えたのだ。

「カルピスおかわり、ちょーおーだーい」
 グラスを差し出す娘と目が合い、はーい、と応える。
 ニュースは地元の局へと移り、見慣れたふたりのキャスターがいた。天板がゆるやかに湾曲した机に手を置き、県内の感染者数を伝えている。
冷蔵庫から出したカルピスを、空いたグラスへ注ぐ。水を入れ薄めたところで、かかー、と呼ばれる。
「濃いのがいいんだけどな〜」
お願い、とぎゅっと目をつむり指を組む娘を見て、閉じたキャップをもう一度開けた。とぷんと垂らすと、くすんだ液体に明るい白が緩やかに落ちる。
 娘の前にグラスを置くと、半透明の水面がふらりまわると同時に「ありがとー」と声が弾んだ。

 私の、思い続けた空への願い事はどうだろう。
 週刊天気予報です。という声に顔をあげる。
 軽く胸が鳴って、すっと口から吸い込んだ空気はひんやりとしていた。
 ねえ娘ちゃん、あれ見て、雪だるま。と言いながら娘のこめかみを指の背でなでる。お天気キャスターが「週末、夜から朝にかけて地域全体で雪が降るでしょう」と伝えていた。
 肩にかかってわすがに外を向いた娘の毛先が、ふわりと揺らいで手首に触れる。光に満ちた瞳と眼が合った。

 12月の終わり、鼠色の空からは結晶が降り、夜が明ける。
 眼前にはきっと、白、白、白。

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