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どこに帰ろう

電話を掛けるのは初めてだった。プライベートが見えにくい人というのはいるもので、彼もその一人、家にいたとしても少々頼みづらい。
「よう、俺」
「だろうな。お前から掛かってきた」
声の向こうは静かだった。
「部屋の鍵失くしたんだわ、夕方まで入れてくれる?」
小さく息を吐く音が聞こえる。断られるかもしれない。幸い、紺堂翔吾は広く浅い付き合いの友人が多い。
「場所送るから切るぞ」
言い終わると同時に通話が切られ、すぐに通知の音が鳴った。


翔吾の電話から5分後に、部屋のインターフォンが鳴った。火が消えたのを確認すると、玄関に向かいドアを開けた。外に立っていた翔吾を追い抜かして冷気が部屋に入り込んでくる。12月だというのに、翔吾はコートを着ているものの、マフラーなどは一切身に着けていなかった。そして、
「こう見ると威圧感あるな」
「ほんと?らっきー」
訳の分からない返事に答えないまま、翔吾を部屋の中に案内する。お邪魔します、という声を聞きながら、この部屋もかなり寒いことに気が付いた。午前中のゼミを終えて帰宅して、まだ暖房を点けていなかった。
「寒いよな」
二宮朝陽は振り返ってそう尋ねた。
「いや、丁度いいけど」
「いや寒い」
「貧弱だねー」
「俺の部屋」
暖房を点けると、朝陽はキッチンに向かってコーヒーを淹れ始めた。
「コーヒーでいい?」 
「優しいな」
「冬の寒い日に部屋に入れない同級生が哀れでね」
普段は他人が出入りすることのない部屋だった。この空間に翔吾がいる光景に違和感を覚えた。
「夕方までにはどうにかなるの?」
そう、と言うと、翔吾が部屋に唯一の二人用のソファに腰を下ろした。
「管理人?管理会社?が夕方に開けてくれる」
「すぐ来るもんじゃないの」
「だろ?そこんとこ気に食わないけど、まあ開けてもらうしかないからしょうがない。俺んとこ古いし」
古いのは関係ないだろう。部屋に入れなくなった人間は焦って不安になるか苛立つかがほとんどだが、翔吾は妙にフラットだ。
「ばあちゃん家だな」
「は?」
「俺のばあちゃん家みたいだな、ここ」
「そりゃあ、お前のばあちゃん家洒落てるな」
内装のことではないと分かっていたが、その正体に気が付いていない翔吾に付き合うことにした。朝陽もソファの端に座った。
「ばあちゃん家がこんな家なわけないだろ。でも、ここばあちゃん家なんだよな」
「俺以外に人がいるか?」
「え、いるの」
いたことはある。それを翔吾に教えるつもりはない。

「鍵って誰かが拾ったらどうなるか知ってる?」
翔吾の問いかけに、カップを置いて考えてみる。朝陽だったら、踏まれない場所に置き直すまでだ。それ以上は関わろうと思わない。
「さあ。拾って投げるとか」
「お前は交番に持っていかないタイプか。だよな、盗まれるよりは投げられた方がいいよな」
適当に答えただけだったが、確かに鍵を拾ってそのまま盗む人もいるだろう。翔吾の部屋を見つける可能性はかなり低いが、自分の部屋の鍵を他人が持っていて気持ちがいいことはない。
部屋の隅からうっすらと煙が昇っていた。火がなくなった後の緩やかな煙は見ていて楽しい。
「反省してさ、鍵しまうところ決めておこっかな。朝陽はどこに入れてんの。しまうところ決めてる?」
「バッグのポケット。リュックなら外ポケットとか」
「鞄ね」
「服の?」
「そうそう、後ろのポケットとか、今日は確かコートのに入れた気がする」
「それは失くすだろ。コートはないわ」
「いや、鍵閉めて、ぱって突っ込めちゃう」
「大学で脱いで椅子に掛けたら落とす」
翔吾が腑に落ちた顔をした。こいつ、やばい。
「学習した、もう落とさない」
「楽しみだな」
今度はうっかり服と一緒に洗濯していそうだ。

適当に時間を潰していると、話題はどうしても就職に関連したものになる。そろそろそんな時期だった。
「朝陽ってイメージできないな、仕事してるの」
「それはないだろ。翔吾は営業が向いてそうだな」
「分かる?俺もそう思う」
やりたいことはない。そもそも、やりたいことを仕事にしたいわけでもない。こんな状態だから、イメージができないと言われてしまうのだろうか。
「にしてもここ広いな。大学生が住むとこじゃないだろ」
「ああ、ずっとここだから。引っ越したんじゃなくて」
大学から一人暮らしになったのは事実だが、あまり深堀してほしくない話題だった。コーヒーに手を伸ばすよりも、翔吾が口を開いたのが先だった。
「親は。朝陽って何人家族?」
部屋に上げるんじゃなかったと後悔が滲む。しかし、電話であんな風に頼まれたとき、断ろうとは少しも思わなかった。大丈夫、誰も悪くない。
「3人、くらい?」
二人なら、約3人は嘘ではない。苦し紛れの返答は、明らかに違和感があったが、翔吾はあっさりと頷いた。
「そう」
「うん、そう」
「じゃあ、ちょくちょく来ていい?」
動揺を抑えて翔吾を見つめると、特別な表情のない顔があった。何でもないけど、何となく。そんな顔をしていた。
「嬉しくはないな。人を上げるの、好きじゃない」
「えー、お願いだって。俺の部屋みんな知ってるから、たまーに鬱陶しいんだよ。ね、ここが俺の避難場所」
顔が広い奴の苦労なんか知ったことじゃない。そう思いながらも、翔吾がここを居場所としようとしていることにどこか安心していた。
「広いし、もはや住めるな」
「だめ。あと、誰か連れてきたら出禁」
「素直においでって言えないかねえ」
頼んできたのは翔吾なのに、いつの間にか向こうが主導権を握っている。翔吾はいつもこうなのだろう。
「帰れば?そろそろ」
朝陽がそう言うと、翔吾が腕時計を覗いて立ち上がった。
「だな。ごちそうさん」
カップを流しに持っていき、あっさりと玄関に向かっていく。
「じゃあまた」
「また」

朝陽が使ったカップを持ってキッチンに移動する。水を流してカップを洗おうとしたところで、インターフォンが二度続けて鳴った。翔吾だろうか。
「悪い、スマホ忘れた」
「うるせえな」
翔吾が先程まで座っていたソファの前でしゃがみ、スマートフォンを拾い上げた。慌ただしいにも程がある。
「連絡取ろうとして気付いた」
「全部に紐でも付けておいたら」
ははっと笑った翔吾が一瞬動きを止めた。
「分かった、これ」
「え?」
「線香か、この匂い。ばあちゃん家と一緒なの」
線香ではない。何なら翔吾の祖母の家の匂いというのも線香とは限らないのだが。違うと言わなければ、翔吾は勝手に勘違いして気を遣うかもしれない。
「教えない。そんなのも知らないの」
「違うの?」
「早く行けば」
墓でも匂ったぞ、とまだ何か言いながら部屋を出ていく翔吾の背中に、朝陽はひっそりと微笑んだ。
「ありがとさん」
「はいはい」
今度こそ部屋は静かになった。

二年前だった。大学に入学した年の夏に、母親が“いなくなった”。
もう一人でも生きていける年齢だった。だから、朝陽は自分の暮らしを作ろうとした。
同じ部屋なのに、随分と空っぽになった空間に居心地の悪さを感じた。だからといって家具や物を増やすわけではなく、新しい匂いを迎え入れた。
京都にふらっと出かけて見つけたのが、お香だった。
場所ではなくて、この匂いが朝陽の帰るところになった。
だから、翔吾一人が出入りするようになるくらい、何の問題もない。

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