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味方

二宮朝陽には、五月に何かに急かされた経験がない。ふと、そんなことを思った。それは今年の五月であるまさに今も例外ではなかった。
連休が過ぎた五月は、面倒でちょっとおもしろい。

高校三年生の放課後だった。日没が随分と遅くなり、授業の後の時間が長く感じるようになる季節だ。教室を出ると図書室に寄って、昨日の授業で触れたキルケゴールの本を適当にめくり、17時を過ぎたところで本を戻して帰宅することにした。
二階の渡り廊下を歩いていると、向こうから一クラス分のノートを抱えた教師が歩いてきた。顔はよく見えないが、恐らく朝陽の知らない人。手元に集中していそうだから、と心の中で言い訳をして知らない顔をしてすれ違おうとする。しかし、そうもいかなくなった。
「セーフ」
ノートの山は、突然傾きだすと上半分が教師の前方に雪崩れ込んでいく。朝陽が駆け寄って雪崩を受け止めたことで、事態は静かに収まった。
首のあたりにノートの角が当たって痛かったが、どうにも動きづらい状況になっていた。
「ごめんねー、ちょっと待って、こっちに流してくれる?」
不器用にノートを積み上げ直そうとする教師の姿に可笑しくなった朝陽は、雪崩れてきたノートの丁度良い位置に手を差し込み、半分ほどを受け取った。
「持ちます」
ありがとう、と礼を言いながらやっと見せた顔は若く、やはり初めて見る顔だった。

歩き出した教師についていくと、一つ上の三階に上がり、社会科の教師の職員室である社会準備室を通り過ぎ、「社会準備室2」とプレートに書かれた部屋に辿り着いた。
危なっかしい手付きで教師が扉を開けると、がたついた音が静かな廊下に響いた。古い教室の匂いがする。
よいしょ、と中央に長机を並べて作った大きなテーブルにノートを置くのを見て、朝陽もその横にノートを下ろした。
「ありがとう、助かった。ええっと、どこの誰?」
「二宮朝陽、三年です。四組」
「選抜クラスだ」
「一応。あの、先生は」
「知らないか。相田です。世界史で二年生みてるから、そっか知らないね」
「俺、日本史と倫理なので」
「あー、そうなるよね。僕も三年目だけど、世界史はほんとに人気がないよ」
朝陽も世界史は苦手だ。そんなに世界中の、しかも昔のことを知っても仕方ないじゃないかと思うのだが、相田のような世界史の教師にとってはそれこそがおもしろいのだろう。
じゃあ、と準備室を出ようとすると、「部活は?」と呼び止められた。
「してません」
この二年数か月、ずっと帰宅部だ。
「ああそう。もしかしてバイトしてるの?」
咎める口調ではなかった。実際、朝陽は家の近くでバイトをしていたが、笑ってはぐらかす。
「僕も高校の時していたから分かるよー」
何が分かるって?相田もここの出身なのだろうか。
「お礼に、コーヒー飲んでいかない?」
暇だった。言われるままに頷いた。

薄暗い室内にいい香りが漂い始めると、朝陽は不思議な感じがした。少し憧れていた気がするし、やはり優越感がある。しかし、相田という教師のことは、怪しいというわけではないが何も知らない。
「部活をしていないと、放課後にいろんなことが起きるでしょ」
先程から、朝陽が思うことが分かるかのように話すのもよく分からない。
「尤も、部活してる奴にはそっちに別のおもしろい世界があるんだろうけど」
確かに、そうかもしれない。
「帰宅部で、校則違反のバイトをしていて、受験生で、五月か。今ってどんな感じなの?」
「どんな。何も無いですよ。まだ何も決めなくていいとも思ってます」
本当にやりたいことがなかった。進学に対する熱意もないが、特進コースにいる限りはある程度のところに入らなければならないようだ。学力は問題ないが、そうなると余計にどこでもいい。同じクラスの奴には絶対に話さない小さな悩み。
「ここって使ってないんですか」
「昔はもっと先生がいたらしいけどね、今は物置。俺は、僕はここが好きでよく一人でいるんだけど」
「ふうん」
一人で過ごすには悪くない部屋だ。
「はい」
広いテーブルに、何の特徴もないマグカップが置かれた。縁に茶渋のようなものを見つけ、そこを避けて口を付ける。
「砂糖とかないんだけど飲める?あ、もう飲んでる」
「いつもブラックなんで」
「ははっ、大人だな。今の高校生すげえ」
淹れるときにはいい香りがしたコーヒーだったが、飲んでみると思った程はおいしいものではなかった。
「相田先生は、ここの出身ですか」
場繋ぎのために話しかけると、相田は首を横に振って、この高校よりも偏差値の高い、県内一と言われる公立高校の名前を挙げた。
「まあ、たかが公立だよ」
「ここなんか大したことないって思います?」
「いや?丁度いい。僕もこっちにしておけばよかった」
本気かどうか分からない声でそう言うと、相田は愉快そうに笑った。朝陽たちの7つ上だという彼だが、笑った顔は自分たちとそんなに変わらない。
「偏差値のあの、ちっさい数値で存在価値が決まる学校だったな」
僕はいつも上位にいたよ、と付け加える。もはや自慢には聞こえなかった。
「それは、大分嫌な奴だったんじゃないですか」
「そうそう、楽しくなかった。友だちはろくにいなかったな」
笑った相田につられて、朝陽も唇の端を上げる。おもしろい、この先生。
「俺もいません」
「それは敢えて?それとも?」
「話す奴は普通にいるんですけどねえ。俺より成績がいい奴は何人かいるんですけど」
「何人か、ね」
「本当なんで。でも、どいつも頭悪いんじゃないのって思うときがあって。俺がひねくれてるからだろうけど」
「そんなことない。あるか」
うざ。
「言葉が通じる奴がいない気がします」
分かる?という気持ちを込めて相田を見上げる。
「うん、広く深く暗く、ものを考えられる人は案外少ない」
「先生は?」
「俺もそんな感じで。周りを見下してた。多分俺の方がうざいよ」
一人称に僕と俺が混在する相田は若く、それは朝陽にとって悪くなかった。
「大学は、話ができる人いました?」
「いたいた。二極化する。教育学部ね、公務員とか子ども大好きって言ってる奴らは俺のこと馬鹿にするんだけどね、子どもは別にって言いながらぶつぶつ考えてる奴はね、好きだったな」

「大学かあ」
漠然とした小さな悩み。それを話せるのは、きっと相田のような人だ。大人なのか子どもなのかよく分からない。
「相田先生、子ども好きなの?」
すっかり敬語が抜けていた。相田にはそれが許される雰囲気があった。
「嫌いじゃないけど、嫌だよ仕事で子どもと関わるの。高校生なら、まあ子どもじゃないでしょ?」
「子どもだよ」
「二宮君に言われてもなあ」
大人か子どもか曖昧な大人が、大人か子どもか分からない子どもの相手をする。朝陽は、子どもだ。外側だけが大人びた、多分一生の子ども。
「進学、しないといけない?」
「受験生の悩みって感じ。いいねえ」
「どこでもいいなー」
「どこでもだめなんでしょ?」
いつの間にかだらけていた身体を起こした。そんなことを言っただろうか。
「頭がいい人がいるところにしないと」
「偏差値じゃ分かりませんよ。そんなの、運だ」
「いやいや、やっぱりある程度勉強ができる人達の中にいるもんだよ。頭のいい人」
「何か、不純」
それでもいいか。そういえば、相田の大学はどこだっけ。

いつの間にか、吹奏楽部の楽器の音が消え、代わりにグラウンドのどこかの部活の音がぼんやりと響いていた。普段の朝陽が知らない音だった。
「二宮君には自由で優しい友だちがいいね」
相田がぽつりと言った。
「自由で、優しい?都合がいいな」
そんな人が、同じ年にいるのか。仮にいたとしても、朝陽はそんな人を好きになるだろうか。
「いるよ。絶対いる」
「じゃあそれ楽しみに頑張ろうかなー」
カップに残ったコーヒーを飲み干す。ごちそうさま、と言うと相田がカップに手を伸ばしたので、厚意に甘えてカップを渡した。
「付き合ってもらって悪かったね」
「いや、別に」
「バイト、ばれないようにしなよ」
「余裕」
「廊下で見かけても、綺麗な顔で目立つから」
「余裕?」
笑って扉に手を掛ける。持ち上げるように力を入れなければ扉は動かなかった。
「じゃ、さよなら」
「気を付けてー」

あの部屋、使われなくなったという社会準備室は薄暗かったが、途中からは夕日が眩しかった。そのせいか、あの日の思い出は全体的に黄色い色をして記憶に残っている。

おもしろいことなんてなかった高校時代を、それでも懐かしいものとして思い出せるのは、あの時間があったからだ。きっと。

「おはよう」
顔を上げると、明るい研究室に高野涼香の顔があった。
「おはよう」
「寝てた?」
「かもな」
「何それ」
15分程ぼうっとしていた。その間、眠っていたのか朝陽には分からなかった。夢に見てもおかしくないことを思い出していた。
「涼は?」
翔吾は、とは聞かないのは涼香にとって当然のことのようだ。
「俺より先に来てた。で、どっか行った」
「どっか?どこよ」
「井ノ原先生のとこだろ」
丁度そのタイミングで、涼が研究室に戻ってきた。朝陽たちを見つけてにっこりと笑う。
「おはよう。今日は、3人?」
紺堂翔吾が来るかどうかは、この時点では分からない。30分経って姿を現さなければその日は来ない。

自由で優しい友だちしかいない。すげえじゃん。

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