その舞台を知っていること
読んでいたい本の条件の一つに、読みやすさがある。ここでの読みやすさとは、文章が途中で引っかかることなく流れていくことで、文章と自分の相性のようなものだ。
すると、海外文学は読みづらいと感じてしまう。慣れない価値観や表現、単語に当たる度に文字を追う目が止まり、何度も「こちら側」に帰ってきてしまうのだ。
シュティフタ―と私に共通することといえば、自然に触れて育ってきたことくらいだ。しかし、その共通点によって、穏やかな緊張感、つまり集中して彼の作品を読むことができたのだ。
岩波文庫のシュティフタ―の作品はいくつもあるが、それらは何かしらの「石」に関連している。石は地形や土地であり、各タイトルは物語の舞台を示した。
「みかげ石」という物語がまさにそうであるが、シュティフターの作品は日常にビデオカメラを向けて、時間の流れるままに風景や人間の言動を映したような静かな流れがある。それはまるで、紙にペンで真っ直ぐに線を引き続けるときのような淡々とした流れで、できればずっとその緊張感を保っていたいと思う心地良さを伴っている。時代と国が異なっているにも拘らず、その集中力が途切れることがないのは、自然風景や日常といった私の中にもある感覚が物語を読み進める潤滑油となったからだ。いや、それはどんな作品にも言えることで、シュティフターの腕が大きいのだろう。
みかげ石、石灰石、石乳、水晶・・・。
題目の頁を捲れば、既にその舞台の上にいる感覚が、シュティフターの作品における読みやすさだ。
ちなみに、彼は風景画家でもあり、物語同様自然風景が匂い立つ。
気取るところが一つもなく、浮かぶ情景や絵に懐かしさを覚えるから、彼の作品に触れていると、まるで目の前にシュティフターがいて、この地について語っているかのようだ。
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