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光はある

早朝、朝陽は鞄の中身を確認する。
財布やスマートフォン、部屋の鍵、電子ノート。それから、とノートとペンを鞄に突っ込んだ。現場に行くのにこれを忘れたら馬鹿馬鹿しい。
外はまだ真っ暗だが、そろそろ出掛けなくてはならない。

部屋を出ると、鋭い寒さが朝陽の頬を刺激した。かじかむ手で鞄から鍵を取り出すが、出した拍子にうっかり落としてしまう。
しゃがんで拾った鍵には、小さな鈴のキーホルダーが付いている。本当は革製のブランド物を付けたかったが、落としても気が付けないので仕方なく安っぽく光る鈴をぶら下げている。
朝陽は、鍵を掛けるとのんびりと階段へ向かった。ぼうっと空を眺めていると、徐々に頭が覚醒していった。

車から降りた朝陽は、機材をほとんど身に付けるように持った。これでも一度では運べない。スタジオまで走り、機材を置くとまた車に戻った。

最後の荷物と共に、朝陽はお辞儀をしてスタジオに入る。スタッフに声をかけられない分、自分なりの挨拶をすることを習慣にしていた。
セッティングが終わったタイミングで、後ろから肩を叩かれる。振り向くと、カメラマンの神田が微妙な顔をして立っていた。
神田は、30代前半で小さな事務所を作った実力のあるカメラマンだ。朝陽は昨年から彼のアシスタントをしている。人当たりがよく誰とでも上手く仕事ができる神田だが、身内には変わった個性を求める。コミュニケーションに難のある朝陽を、彼は楽でいいからという理由で受け入れた。朝陽が撮る写真は、面接でちらりと見ただけだった。

神田は、朝陽と話すようになって購入した電子ノートを翳した。
『撮影の間、後ろに下がっておいてくれる?』
頷きかけて、神田の顔を覗く。今まで、現場でこんなことを言われたことはなかった。
戸惑う朝陽に、神田が再びノートを見せる。
『みのりちゃんがミーハーで、ちょっと厄介らしい』
ああ、と朝陽は曖昧に頷いた。
松田実は、半年前からメディアで目にするようになったモデル兼タレントだ。年齢は朝陽より5つ下の21歳だ。モデルとしては小柄な体型に愛らしい顔立ち、加えてよく笑う明るいキャラクターは、若者を中心に一気に人気を集めた。朝陽もテレビで目にした名前だが、ずっと「みのる」だと思っていた。
了解です、と返すと神田さんが被っていたキャップを朝陽の頭に載せた。潔癖症の朝陽は心の中で顔を顰めるが、これも随分と慣れた。

神田はモデルやアーティストとの仕事が多いため、神田と共に行動する朝陽も自然と芸能人と接するようになった。被写体として多い女性のモデルたちは、派手な外見の男に慣れているはずなのに、アシスタントとして現場を動き回る朝陽に目を付けては撮影の合間や終わりに声をかけた。その度に補聴器をちらつかせ、お互いが曖昧に会釈をする。朝陽があまりにも感じが悪いと神田に迷惑をかけるため、毎回あしらうのに労力を要していた。

カメラテストやその他の準備が終わると、スタジオが一気に華やかになる瞬間があった。室内のギアが上がるこの瞬間が朝陽は好きだった。
今日は全国展開する洋菓子店の広告撮影で、苺フェアをアピールするものになっていた。赤いギンガムチェックを使ったセットは、確かに春らしいが捻りがない。
スタッフの動きが変わり、一斉に同じ方向を向いた。朝陽もそちらを向くと、セット同様赤いワンピースを着た松田実が笑顔で現れた。
朝陽はすっと照明機材の後ろの方に下がった。セットが明るい分、朝陽が立った場所は真っ暗に近く、恐らく向こうからは顔も見えないはずだった。
神田の手が実に指示を出すと、少し後にスタジオに光が走る。普段は神田の傍でサポートをしているため、神田とのこの距離は不思議な感じがした。

朝陽が撮る写真は、青みを足したドライな質感と被写体との絶妙な距離感が特徴だった。神田曰く、お洒落で温かい。
しかし、朝陽にはずっと憧れている写真があった。大学時代に、友人が撮った同じく大学の同期だった高野涼香の寄りの写真。技術や工夫は全く見られないのに、むしろそれが魅力的な一枚で、朝陽が撮る写真とは系統が全く違う。目指さなくてもいいのかもしれないが、朝陽はあの写真が撮れるあいつが羨ましかった。

撮影中は手持ち無沙汰だった。サポートができない、近くで見られないとなると何をしていいか分からない。職人たちの動きをぼうっと観察していると、神田が仕事を終えてこちらに歩いてきて朝陽を手で呼んだ。
『撮ってみるか。向こうとは話してある』
困ったような顔をした神田を見つめながら、朝陽の心拍数は上昇していた。
現場で写真を撮るのは初めてだった。当然、朝陽が撮ったものが使われるわけではない。それでも、練習や個人的な撮影以外の場で撮らせてもらえる機会は貴重だ。
『ありがとうございます、ぜひ撮らせてください』
『さっきは隠れておけって言ったけど、せっかくだから行っておいで』
互いに苦笑して、セットの傍でマネージャーと話している実のもとへ向かう。朝陽が二人に挨拶をすると、後ろからキャップを取られる。
『神田さんのところでアシスタントをしています。二宮朝陽です』
個展などでは「EMOTO」として活動していたが、関係者には実名で挨拶をする。アーティストネームを伝えてもすぐに理解してもらえないが、それが気にならないくらいに名前が売れるようになりたかった。
神田が手渡した電子ノートに、マネージャーが挨拶の言葉を書いて見せた。

カメラに手を乗せると、実がセットの中で可愛らしいポーズを取った。少し考えて、朝陽はちらりと傍に立つ神田を見た。神田は目を合わせようとせず、実をにこにこと見つめている。
朝陽は、とりあえず一度だけシャッターを押した。そうすると、実は勝手にポーズを変えてくれる。そのタイミングで、朝陽は実に手で後ろを向くように指示を出した。明るい世界観だからこそ後ろ姿が映えると思ったのだ。
実は素直に後ろを向いたが、顔だけはこちらに向けて笑顔を見せた。顔も向こうを向いていてほしいが、そのままシャッターを押す。何枚か撮ったところで終了する。
引き出したい顔がなかった。それが実に対する正直な感想だった。それでも、写真を撮らせてもらえる機会に対して感謝の気持ちを示した。

片付けをしていると、衣装を着たままの実が近寄ってくるのが視界に入ってきた。間に合わない、と思う間に実は朝陽の真横に立った。
「    」
少しだけ口角を上げて、補聴器をよく見えるようにした。できれば話したくなかったので、ポケットからノートは出さない。
あ、という顔をして実が何かを書くジェスチャーをした。仕方なくノートを渡すと、嬉しそうに何かを書きだした。朝陽は、ペンを持つ幼い手付きに思わず目を背けた。
『朝陽さんの写真いいですね。いつかまた撮ってくださいね』
さらに口角を上げて頷きながら、朝陽は自分の中に意地の悪い思いが膨らんでいくのを感じていた。
実の手からノートを奪うと、『どんなところがよかったですか。いろんな人の意見が聞きたくて』と、低姿勢を装って実に恥をかかせようと企んだ。
案の定、実は『オシャレなかんじ』とだけ書くと、それをさっと消してしまった。続けて書いたものを朝陽に見せる。
『院卒ってほんとですか?』

朝陽は大学卒業後に大学院に進学した。研究に対する意欲があったわけではなかったが、22歳で失聴したことで、すぐに社会人になる気になれなかったのだ。
一昨年の就職活動では、どこを受けても人事の人間に嫌な顔をされた。面接は朝陽の耳に配慮されたものだったが、彼らは朝陽が聞こえないのをいいことに顔を見合わせては好き勝手なことを口にした。朝陽はそれらを聞き取ることはできない。しかし、何となく読めてしまうのだ。
一番酷いことを言われた企業の名前は忘れてしまった。あの後、必死に存在を殺したから。この顔と耳じゃトラブルが増えそうで嫌だよ。
授業をさぼって何週間か悩んだところで、朝陽は写真の道に進むことを決めた。朝陽にとって、カメラや写真が社会とのコミュニケーションツールのような気がしていた。

カメラの世界に入ると、多くの人が実のような反応をした。大学院まで出たのにもったいない。きっと、彼らは高校や専門学校を出て写真の世界で生きている自分たちのことが誇らしいのだろう。もったいないと伝えてくる誰もが、朝陽の顔なんて見ていなかった。

『そうですよ。のんびりしているだけです』
これ以上聞いてくるなよ、そんな気持ちで文字を見せる。
早く片付けて帰りたい。先程から神田が一人で撮影機材を運んでいた。
へー、という顔の実。もういいだろう?
『朝陽さんは手話できないんですか?』
実が爆弾を放った。

朝陽は、鼻からゆっくりと息を吸った。その倍の時間をかけて息を吐き出しながら、怒りを消化する場所を探した。物に当たりたいところだが、ここではだめだった。
実が「ありがとう」や「こんにちは」といった簡単な手話を見せた。無邪気な笑顔に余計に腹が立つ。
分かってたまるか。
朝陽が好きなのは、話し言葉や書き言葉だ。手話が嫌いなわけではない。ただ、慣れ親しんだ言葉を諦められなくて何が悪い。
顔に微笑を張り付けて、このまま立ち去ろうと心に決める。踵を返しかけたところで、いつの間にか後ろにいた神田の手が肩に触れた。
『飲み物買ってくるね。もうすぐ出るけどまだ大丈夫』
『俺がいきます』
雑用は朝陽の仕事だった。実から奪い返したノートに殴り書いた文字に、神田は笑って首を振った。ごゆっくり、というように実に笑いかけると、暗くて細い通路へ消えていった。

何も話しかけられないようにノートをポケットにしまう。実が手振りで何かを訴えるが、笑って分からない振りに徹した。
今は何時だろう。朝は何も食べなかったから、そろそろ腹に何かを入れたい。事務所に戻ったらとりあえずコーヒーを淹れよう。 
左肩に手が置かれた。朝陽の肩をすっぽりと包む大きな手。振り返ると、少しだけ見上げる位置に神田の顔があった。
「帰るぞ」神田はきっとそう言った。手に持った缶は一つだけ、神田は糖分控えめのカフェオレを実に渡すと、挨拶をして朝陽を促す。朝陽も実に頭を下げる。顔を上げたタイミングで実の顔を確認すると、実が楽しそうに笑っていたことに安心する。振られた手に苦笑してもう一度頭を下げると、朝陽は歩き始めた神田を追いかけた。

『ありがとうございます 助かりました』
神田のフォローに感謝する。あのまま二人きりだったら、朝陽は実を怒らせていたかもしれない。
『大手さんだと、たまにあんなことがあるから』『あしらい方身に付けないとな』
朝陽はそろりと頷いた。俯いた顔が恥ずかしさで険しくなった。朝陽が現場で闘っていかなければならないのは、耳の聞こえだけではないのだ。他人の目を引く外見は、仕事を上手く引き寄せることもあるだろう。しかし、それ以上の負荷は覚悟しなければならない。神田以外には、きちんと写真で評価してほしかった。

機材を積み終えて車に乗り込むと、運転席の神田が電子ノートに何かを書きだした。冷え込んだ車内に、かすかにエアコンの埃臭さが広がっていく。『今度デビューする男の子がいるんだけど、朝陽にもチャンスをあげる』
心拍数が上がる。先程の比ではなかった。顔の奥、耳の近くがピリピリとする感覚に、朝陽は自身の興奮を認めた。
『朝陽が撮ったのがよかったらそっちを使うつもりでやってね』
嘘だ。そんなのは優しすぎる。神田は、朝陽に甘すぎるときがある。
『嬉しいです。やらせてもらいますけど、どうして?』
『好きな子は甘やかしたいから』
『それは、彼が?』
『どっちも。俺、多分その子好きなんだよね』
神田が気に入るタイプということは、その彼は変わった個性を持っているのだろうか。朝陽よりも年下だろう彼に会ってみたくなった。
『朝陽と一緒にしてみたらおもしろそうだし、お互いにとっていいことがありそう』
神田が楽しそうに笑った。口元に笑みを残したままノートをしまいかけて、思い出したように再び何かを書いた。
『それまでに上手くなってなかったらなしね』
そうだった。神田はとても厳しい人だ。その日までにどれほど上達していればよいのか分からない恐怖に、朝陽は小さく笑う。興奮で空腹が飛んだ。

アシスタントの自分がただ助手席に座っているこの時間は、いつまでたっても居心地が悪い。運転中は話せないから、いつも顔を左に向けていた。
真冬の昼の光は、とても綺麗だ。
窓を全開にする。冷たい空気が走り抜けるが、瞼はどこか温かかった。
こんな光の下で写真を撮ってみたい。
右の肩を叩かれて、朝陽は窓を閉めた。頬を過ぎる風がなくなっただけで、相変わらず光は瞼に心地よかった。




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