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パラシャ第19週:テルマ(奉納物)

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基本情報

パラシャ期間:2024年2月11日~2月17日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 25:1 ~ 27:19
ハフタラ(預言書) 列王記第一 5:26 ~ 6:13
新約聖書 コリント第二 9:1~15
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

主の僕たちは自ら立ち上がり、家を建てる
ユダ・バハナ 

最近、ガザでの予備役から戻られたユダ・バハナ師。
今年中の日本への招聘を、計画しています。

今週のパラシャ(通読箇所)からは神の礼拝の基本的かつ重要な側面、そして幕屋の建設について読み学ぶ。ここから出エジプト記の終わりまで、聖所建設や聖所に関する詳細な説明・規定が続いている。そしてその最高潮が、神の栄光が幕屋全体を覆う、幕屋の『グランドオープン』だ。それまでは誰も、モーセでさえも幕屋に入ることができなかった。
 
神は人々の捧げ物や働き・奉仕を受け入れ、私たちの間に住まうために来られた。今週から数週間にわたって、聖所の建設とそこでの道具、祭司の装束について非常に詳細な説明を見て行くことになる。そしてそんなこのトーラーにおける主題の始まりは、イスラエルの子らが心からの捧げ物を捧げるよう求められる箇所からになっており、これは興味深い。

全能・完全な神に、幕屋という『住まい』は必要?

シロ遺跡の、天幕があったとされる場所

わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。
あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

出エジプト記 25:2 

この捧げ物(パラシャ名でもある「テルマ」)の目的は、何か。
続きの聖句にあるとされる。

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

同 8節 

しかしこれはすぐに疑問を投げかける。
ユダヤのラビ・賢人たちは、何世代にもわたってこの疑問について、尋ね続けてきた。 

天はわたしの王座、地はわたしの足台。
あなたがたがわたしのために建てる家は、いったいどこにあるのか。

イザヤ66:1 

この聖句にあるように、この天地全体が神の住まいであり、無限の神は限りあるスペースに限定されるべき存在ではない。
ではいったい人はどうして、宇宙の創造主である神を住まわせる(=収容する)家を建てるという行為ができるのか?
 
聖書は「天が王座、地が足台」と、イザヤ書で明確に述べている。
 
9世紀に編集されたミドラシュ(聖書解釈書)『タンフマ』も、この「私たち人は、神に聖所を造ることができるだろうか」という疑問を提示し、こう答えている― 

聖なる、ほむべき方は彼に言った。
「わたしは自分のために聖所を求めているのではなく、彼らのために求めているのだ。」

ミドラッシュ・タンフマ、ナッソ11 

捧げ物や礼拝を神に捧げるというのは、私たちの意欲・希望である。全世界は神の被造物であり、被造物と創造主である神そして神の力と、比較することはとてもできない。
私たちと神は、同列に語ることは決してできない。
 
ではそんな比べることのできない私たち被造物は、どのように創造主である神に仕えることができるのだろうか。
 
その答えも神の力によるのではなく、私たちの力と能力による。
ミドラシュ・タンフマは続けて次のように述べている。 

イスラエルはこれ(前述部)を聞いて立ち上がり、喜んで捧げ物(テルマ)をした。
こうして、幕屋を造った。 

そして人々が心を開いて自ら自由に捧げ、すべての働きがなされた時、聖所は神の栄光で満たされた。人々が自ら心を開き、純粋な努力と自らの進んだ姿勢でそれを建てたからだ。
 
この部分の聖句とその解釈であるミドラシュから、惜しみなく与え、神と周りの人々に仕えるという私たちの意志が、聖書の全ての戒め・規則の基礎であることを、私たち学ぶことができる。

献金についてのイェシュアの教え

神殿にあった献金箱の復元案の1つ
(beishamikdashtopics.com より)

「わたし(神)のためではなく、彼ら(被造物・人)のため」というこの原則は、新約聖書にも明確に書かれている。イェシュアは献金箱の隣に座って、神殿に来た人々がお金を寄付するのを見ておられた。神殿に来た巡礼者の多くは裕福でたくさんの寄付をした。
しかし、イェシュアは献金箱にお金を入れていたすべての人々の中で、何も持たない貧しい未亡人という、非常に特別な女性に気がついた。この女性はたった2枚のコインを、献金箱に入れた。彼女はおそらく神殿を訪れながら、自身のみすぼらしい見た目を恥じていたかも知れない。
彼女は自分の最高の(安息日用の)服を着ていたが、それでも神殿に来る他の人々と比較すると、とても質素なもので貧弱だったと想像できる。
 
そして身なりだけでなく献金・寄付の額についても、多額の寄付をした人々と自分を比べて、彼女は自身を恥ずかしく感じていただろう。人々は神殿の献金箱に大金を入れていくが、彼女の捧げた寄付は雀の涙だった。彼女の捧げたコイン2枚は神殿にとって、何の足しになるだろうか。床の飾り石1枚、祭司のための服を作る反物1mすら買えないだろう。彼女の献金は『そういった観点』から見れば、無に等しかった。
 
しかし、この女性は「神殿・聖所は神のためではなく、人のため」という原則をおそらく理解し、彼女の手にあったすべてを奉納物として神に与えた。そしてイェシュアはこの女性を見て彼女の捧げ物、彼女の信仰に感動した。
そして彼は、弟子たちの方を向いて言った。 

まことに、あなたがたに言います。
この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。

ルカ 21:3 

弟子たちはおそらく周りを見回し、イェシュアの意図したことを理解していなかった。
そこでイェシュアは弟子たちに説明した―
他のすべての人は、豊かな持ち物の中から「多く」の奉納物を捧げた。命じられたように10分の1を与えた人もいれば、それ以上の献金をした人もいただろう。しかし、この貧しい未亡人は額だけに着目すれば少額だが、自分が持っていた全てを捧げた。
神殿への奉納も「神ではなく、人のため」にある。そして相対的観点から、この未亡人は他の誰よりも多く捧げたのだ。

幕屋とは? 

幕屋建設のために使われた、アカシアの木。
(イスラエル南部の、ティムナ砂漠より)

幕屋とは何だったのか?

それはアカシアの木の板で作られた、荒野にある小屋だった。そして長さ28キュビト、幅4キュビトの10枚の幕で覆われている。トーラーには、幕屋の建設に使用されたすべての材料の詳細なリストがある。しかしそれは物質的視点にのみ立った見方で、幕屋は容器にすぎなかっただ。幕屋の本質は神の臨在であり、それはアカシアの木や布ではなく、捧げたいという人々の思いと神に仕えたいという心によって建てられた。
 
そして、ここで重要なのはイスラエルびとは少し前までは奴隷だったという点だ。
長い間経済的に貧窮してきた人々であり、奴隷である彼らは自らの意思で何かをするということはなかった。命令されたことを追い立てられるように行う― それが彼らの常だった。そんな彼らが今、命令ではなく、自分たちが希望すれば捧げるようにと言われているのだ。そして彼らは、愛と喜びをもって捧げ物を捧げた。したがって、聖所は神の栄光と神の力で満たされたのだ。
 
そしてこの聖所建設というプロジェクトは、人々を団結させた。
ファラオはイスラエルびとの精神を破壊しようとしたが、この幕屋建設に通して民の間に共通のビジョンと責任、そして協力が生まれた。それぞれが自分のできるものを提供し、仕事をし力を合わせた。たとえ芸術的才能や提供できる品物も持っていない人も、幕屋のために自ら貢献できたのだ。そして技術・芸術的な面をベツァルエルから学ぶよう、呼ばれた者もいた。ベツァルエルには芸術・工芸的な才能の他に、指導の心・教える能力が神から与えられていたからだ。
 
聖所を建てるための奉納物・仕事により、誰もが神・民とのつながりを感じることができた。
さまざまな人々が幕屋について考え、設計図などを描いた人、色付けした人、縫った人、などそれぞれが「~した人」になることができた。「この楽器のための銀を私は捧げた。なので、この楽器は私の銀だ」や「これは私の金からできた、メノラ(燭台)だ」などと、人々は自慢げに言い合っただろう。これは、途方もない国家としての成果だ。
現代国家で道を歩き「この道路・信号は、私の捧げたもの(税金)によってできたんだ」と、言えることはほぼないだろう。 

第二神殿のエルサレム再建

紀元前5世紀中頃に、ネヘミヤの下エルサレムを再建するユダヤ人たち。
(ダビデの街を研究する、Megalim Institute のYoutubeチャンネルより)

第二神殿についてもネヘミヤが主導となり、エルサレムの住民が自らの手で城壁を建てるようにと言い、同様の成果を挙げたことが書かれている。彼は最初に、袖をまくり上げて働き始めた。しかし、彼らに敵対する隣人はこの働きに反対した。そんな彼らに対する、ネヘミヤの答えは次のとおりだ。 

私は彼らにことばを返して言った。
「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。
それで、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ」

ネヘミヤ記 2:20 

メシアニック運動には、この聖句と考えを採用し、「メシアのみからだの建設をしよう」という、美しい歌がある。「イェシュアがエルサレムで統治するまで、私たちは一緒に働き続ける。反対派は私たちを止められず、神は私たちを力で満たし、神の働き手として私たちは立ち上がってそれを建てる」と歌は続く。「立ち上がって行動し、イェシュアがエルサレムに戻る日まで最善を尽くそう」と。
 
さてネヘミヤの考えは、エルサレムのすべての家族が壁の一部分に関して責任を持ち、それを修理するというものだった。大きな家族はより広い範囲を、小さな家族は小さな部分を担当・修理し、誰もがその能力に応じて仕事をした。
たとえば、大祭司エルヤシブの家族は羊の門とその扉を建てた。エルサレムの住民はそれぞれ採石し、木を磨き、門を取り付け、塔を建設し、石を動かし、エルサレムを再建したのだ。
 
こうしてエルサレムの住民は壁だけでなく、国・民族としての自分たちをも築き上げ、自信を構築した。協力・協働することによりエルサレムの住民は、ネヘミヤの時代、先祖の故郷を再び自らのものとし、その所有者・住民となった。それは今でも彼ら、いや私たちユダヤ人のものとなっている!
出エジプト記での幕屋建設と同様ネヘミヤの呼びかけでも、裕福な人々もほんの少しの仕事しか貢献できない人もすべての人々が関わり、「民全体」のプロジェクトだった。
能力や置かれた状況に応じて、すべての人・家族が関わった。
こうしてエルサレムは、文字通り民1人1人の手によってしっかりと立つこととなった。そして、民の間でつながり・パートナーシップさらには友情も、街と共に築かれたのだ。

1人1人が重要なピース 

エルサレムで発見された、イエス時代のモザイク。
目立たないが、1つでもピースが欠ければ、完全ではない。

このように聖書は、神の臨在を得るためには心を開き、喜びと愛をもって与えなければならないと教えている。
時々、私たちは自身を小さくて取るに足らず、無意味なように感じる。私たちは誰で、何者なのか?宇宙・被造物の点に過ぎず、神は小さな私たちに気付かれるだろうか、と懐疑的になる。しかしこの箇所は、神が1人1人を気にかけておられること、そしてたとえ最も小さな歯車であったとしても、それが重要であると教えている。
イェシュアは神がすべてを見、勘定に入れていると教えているのだ。 

五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。
そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。
それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。

ルカ 12:6~7 

イェシュアは、私たちの頭の毛さえも創造主である神によって数えられ、知られていることを思い出させてくれる。主は私たち一人一人を気遣っているのだ。世界のすべての人が重要で、すべての人は神にとって、1人1人が世界全体を意味する。
神は自身の似姿・イメージによって、人を創造したからだ。
ユダヤ教・文化には、こんな言葉がある通りだ― 

すべての人は、それぞれが世界全体である(に匹敵する価値がある)

イメージという言葉は創世記に最初に登場し、そこで私たちは人が神のイメージ・似姿によって創造されたことを読んだ。すべての生命の神聖さとかけがえのない価値は、この人間の原点・ルーツに基づいており、それが流血が固く禁じられている理由でもある。人を殺すことは、神聖な意味を持つ人生を無効にする。誰かが隣人を肉体的または感情的に傷つけるとき、彼は神のイメージに傷をつけていることにもなる。
他の人間に屈辱を与える者は誰でも、その人のなかに映る神に屈辱を与えているのだ。 

愛に基づく、親切な(倫理的)行為の重要性

有名なユダヤ人の本、ピルケイ・アボット(父祖たちの倫理)に「三つの重要な事柄」についてこう語られている。 

義人シモンは、大集会*の最後の生き残ったメンバーの一人だった。
彼は言った― この世界は、次の3つの上に立っている。
トーラー(律法・教え)、神への奉仕、そして親切な行為。
・・・
ガムリエルの子ラビ・シモンは言った。
この世界は法律、真理、平和の3つによって支えられている。
(ゼカリヤ書8:16に)こうある通りだ―
「あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り、真実と平和をもたらす公正さをもって、あなたがたの門の中でさばきを行え」 

同様に新約聖書では、使徒パウロは愛についての教えを次のように締めくくっている。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。
その中で一番すぐれているのは愛です。

Iコリント 13:13 

ここでパウロは、愛が最も重要と定義している。
信仰は重要で私たちが立つべき基盤ではあるが、愛は信仰生活を喜びの行動へと昇華させる。戒めを守ることができるのは、守らなければならないという強いられた気持ちや報酬、または罰の恐れではなく、戒めや神の教えの真の意図である愛と喜びをもって、それらを守ることが本当に必要なことなのだ。
 
希望がなければ、全ていずれ廃れ失われる。希望なしに存在できる人など、いるだろうか?
希望を失った人は人生の意味を失うが、愛は希望を植え育てる。愛があってこそ私たちは他のために働ける。そして愛のみにより、人々は希望を持つことができる。
 
幕屋は、イスラエルの愛によって建てられた。人々が希望と信仰か愛による、捧げ物を捧げたからだ。
そしてイスラエルが奉納物という形で見せた奉仕の心には、未来の希望と完全な信仰が表れている。 

あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

出エジプト記 25:2 

今日、私たちの愛や広い心、そして天のために捧げる私たちの仕事/テルマ(奉納物)は、私たちを神の王国というプロジェクトへと加えている!
そしてこの愛こそ、私たちの祈りの家を神の臨在で満たすのだ。
 
私たちはイスラエルで、皆さまは日本から―
それぞれが神の王国のため、テルマ(貢献・奉納物)を捧げ続けられるように。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

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