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第19週:テルマ(奉納物)

基本情報

パラシャ期間:2023年2月19日~2月25日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 25:1 ~ 27:19
ハフタラ(預言書) 列王記第一 5:26 ~ 6:13
新約聖書 コリント第二 9:1~15
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)

ヨセフ・シュラム師と学ぶ「テルマ(奉献物)」ー

ヨセフ・シュラム
(エルサレム)

今週のパラシャ(通読箇所)は幕屋のための奉納物で、このトピックについて語られるのは年に1度、このパラシャだけだ。

この奉納物とも訳される「テルマ」は、現在でも献金という意味として日常的に使われているため、これについて教えることはパワフルかつ挑戦的だ。年に1度しか教えないからこそ、主に対して心があり・神の国と王権を自身の人生において重きを置いている人々にとって、十分に強烈な印象を与える。

モーセ、そして新約聖書ではパウロが語ったように、主への捧げ物は心から出たものでなければならない。もしそうでなければこの世でも、来るべき世でも、その捧げ物は意味をなさない。

奉納物(ささげもの)は10%なのか―

左から①レビびと、②大祭司、③祭司

奉納物・ささげものと聞くと、クリスチャンの多くは『什一献金』を思い浮かべることだろう。しかしそれは幕屋で働くレビ人へのものであり、私たちが神に捧げるささげもの・献金は、必ずしも10%である必要はない

私たちの捧げものは2つの要素から成り立つ必要があり、それは収入の10%ではなく、①自発性 と②心からのものであること、という2つであるべきだ。
新約聖書の中にも「什一献金をせよ」とは書かれていない。
(もちろんこの2つが守られているのであれば什一献金は正しい行いであり、什一献金について否定・反対している訳ではない

したがって、各々が自身で決めた割合で捧げれば良い。3%か、10・20・30%か― それは各自の選択だ。しかしそれは強制されたものではなく、心から望んだ自発的なものでなければならない。それが献金に関する、『唯一の掟』である。

しかしレビ人に対する10%の捧げものは強制力を持ったものであり、それは納めなければ神は怒られた。マラキやハガイの言葉は、そんな神の怒りを伝えている。

献金をしない場合の怒りや罰は、(トーラーではなく)預言書に出てくるものだ。レビびとに対する10%の捧げものは「鉄の掟」であり、これには彼らが自身の土地を所有していない、という現実的な理由があった。
アブラハムに対して約束された土地のなかで、レビびとのみが嗣業の地(相続地)を与えられなかった。彼らにとっては、神ご自身が相続地だったのだ。
そこで土地を所有するイスラエルびとは、土地を持たないレビびとに対して小麦(=パン)を与える必要性があったのだ。

自発的な心からの捧げもの―

コリント第一16章を読むと、パウロはコリントにある教会に対して、週の最初の日に集まった際、各々の思う献金をするよう、書簡に書いている。これはここ出エジプト記25章にあるのと同じ原則、自身で心から思う分を奉献するというものだ。コリント第二の8・9章にも、同じようなことが書かれている。種を蒔いたり収穫することは律法であるが、什一献金は律法で規定されたものではない。
什一ではなく、自由意志に基づき自身が心に決めた、喜び進んで捧げられるものであるべきだ。 

そして神は心からの信仰と神への忠誠心から生まれた、このような奉納物は受け取られ、祝福もされるだろう。

そして25章を読み進めて行くと、捧げてもよい物の長いリストがあり、金・銀・青銅から様々な色の撚り糸まで多岐にわたっている。ここには硬貨・紙幣がないが、これは貨幣がまだ存在しない時代だったので、当然のことでもある。当時は金銭ではなく、物々交換によって経済が成り立っていた。
そこで民が携えて来、奉納する物としてリストにあるものは、実際に主の幕屋にとって(直接的に)必要なものだった。そしてこれは、(レビ人へのとは違い)自身で選択できる任意なものだった。 

多くの宗教は神が神殿に住むと信じるが…

ルクソールにあるハトシェプスト女王葬祭殿

さて8節に行くと、聖書(ヘブライ・ユダヤ)的な神殿というコンセプトは、異教・偶像崇拝のそれとは全く違うというのが、見えてくる。

異教では神殿を、神または複数の神々が実際に住まう家のように捉える。そこでそれを具現化するために、最も重要なその神殿で祀られる神の像が、最も神聖な空間に置かれている。
そしてそれに対して拝み、礼拝するのが儀式の核になっている。そこで、神(の像)をきれいに保つ必要性や、神に対して食物を捧げ「食べさせる」必要性が生まれてくる。私たちが神々に提供する―
これは異教的な考えであり、ヘブライ的・聖書的ではない。

8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

異教の聖典であれば、

彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしはその中(聖所)に住む。

 となるはずなのだが、ここでは『彼らの中』に住むとある。
神殿や幕屋・聖所はシンボル・ツールに過ぎず、それは本質的ではないのだ。もちろん神殿は神聖な場所であるが、それは異教のように「神が住まわれているから」という理由ではない。

エルサレム神殿の至聖所に、神を表す像やイメージではなく、モーセに神が与えた契約の箱のみが置かれていることは、そんな聖書的な神殿の違いを反映しているのだ。

この「神が住まわれるのは人の中」という、この出エジプト記のメッセージは、まさに預言者エレミヤが31章で語る「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」という言葉、そして新約聖書のメッセージのベースになっている。 

エルサレム神殿の特異性―

ソロモン神殿

出エジプトから100年以上の時が経ち、ダビデ王の子であるソロモン王は、父が心に描き望んだが神によって建設を禁じられた、エルサレム神殿を建設・奉献した。この奉献の瞬間はとてつもない祝賀の雰囲気だった― レビびとや祭司たち、そして数百のいけにえ、そしてイスラエル中が神殿の中庭に集結した。

そして神殿としても、金や銀による芸術的な細工が施され、他民族の神殿と比べるとスケールダウンはするものの、絢爛なものだった。そして自身で奉献を行う時に、ソロモンはこう語っている―

それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。

列王記第一 8:27

ここにもイスラエルと、その他の民族・異教の神殿との違いが再び表れている。
神殿はあくまで、イスラエルびとに神への帰属や近づいているという意識を与えるための、箱・手段に過ぎないのだ。
聖書の神は、全ての地と全ての天に収まりきるような存在ではなく、これと同じようなパラダイムは新約聖書にも見られる。使徒の働き17章後半の、パウロとアテネの人々との討論である。

私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

23~24節

私たちが信じ仕える神は「知られない神(23節)」ではなく、「知り得ない神」なのだ。

神は私たち人に依存しない―

ソロモンもパウロも、聖書の神が持つひとつの特異性を指摘している。それは、神は私たち人に依存し、私たちを必要としている訳ではない、という点である。
人はこの宇宙全体、天地全て、私たちはもちろん微小な生物から地上のゾウや海中のクジラなどの巨大生物まで、全てを自ら創造された方である。
これも創世記から黙示録までを貫く、聖書の大原則である。

作者がその作品に依存しないのと同様、創造主である神が被造物である私たち人に依存する訳がないのだ。
したがって神殿が必要なのは、神ではなく私たちゆえである。周辺の民たちは神殿を持ちそこで神を拝していたため、私たちイスラエルびとにも神殿が必要だったのだ。また私たち人は何かしら『かたちあるもの』が必要であり、聖書の描く幕屋や神殿もそれを考慮したうえのものなのだ。 

全ての人がアクティブな役割を―

このパラシャでは、幕屋を建てるプロセスとそのための行程・説明に多くが割かれている。ここで重要なポイントは、全てのイスラエルびとが幕屋が出来るまでのプロセスに関わり、そこには命じられた・強制的な部分と、自発的な・任意の部分とが両方ある点である。

こうして幕屋が完成して奉献された際、全てのイスラエルびとが「あぁ、私もこれを建てた/一役買った」と、胸を張って感じることが出来ただろう。

  1.  私はこの燭台(メノラ)となった、金を捧げた。

  2.  神殿を支える柱の土台を作った、銀は私の持っていた銀だ。

  3.  契約の箱を作り上げた材木は、私の捧げものだ。

  4.  私が捧げた毛皮から、ここの天井が作られた、

  5.  私の捧げた石から、あのアロンが着ている美しいエポデが出来た。

などと言った風に、多くのイスラエルびとはひとりひとりが重要な役割を果たした、と感じることが出来ただろう。

もちろんこれは、私たち現在のコングリゲーション・教会のメンバーにとっても、重要なポイントである。実際に「この霊的なコミュニティーとその家に、私は大きく貢献している」と感じれるビリーバーは、一部だったもするからだ。
しかし私たちは最初から最後まで、神との緊密なパートナーシップの中に身を置いている。コングリゲーション・教会の建物とその維持、コミュニティーやミニストリーとしての全ての活動において、私たちは重要な役割を果たしている。 

メシアであるイェシュア(イエス)の弟子たちの、健康的なコミュニティーを築くうえのキーとして、この「自発的・積極的な参画とその意識」を各々が行い・感じることは不可欠だ。
そしてモーセのトーラーを通して参加することの意味、それによって個々の人生において神が何をされているのか、そして私たちの内で神が何をされているのか、私たちと神とのパートナーシップのあるべき姿を、知り学ぶことができるのだ。

まさに世界中のビリーバーによって建てられた、ネティブヤの会堂

まさに私たちネティブヤの新しい会堂は、私たちだけではなく世界中の兄弟姉妹によって建てられたものだ。少しでも自発的に心から祈り・支援されている(この読者を含む)兄弟姉妹は、私たちの会堂の建設に直接的に関わられたのと同義である。
したがってイスラエルびとが幕屋完成の時に感じたように、エルサレムに来られた際は是非ネティブヤを訪れ、同じように「これは私の祈り・支援の結果で、私はこれに貢献した」と感じて頂きたい。

ここでは毎日、様々な活動が行われている。エルサレムの貧しく空腹の人に食物を与えるスープキッチン(ハ・モツィ)、ユダヤ的なイェシュアのティーチング収録、印刷物の作成そして全世界への発行・発送、コングリゲーションの枠を越えた若者の活動、女性の集い、地域社会のためへの活動など、新しい会堂の用途は多岐にわたっている。
これも皆さまひとりひとりが参画している、結果なのだ。 

このパラシャから学び、それぞれのコミュニティーやイスラエルでの神の働きにおいて、一層アクティブな参画意識を皆さまが持たれるよう、イスラエルより日本の親愛なる兄弟姉妹のために祈りたいと思う。


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