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パラシャ第17週:イテロ

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基本情報

パラシャ期間:2024年1月28日~2月3日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 18:1 ~ 20:26
ハフタラ(預言書) イザヤ 6:1~7:6, 9:5~6
新約聖書 ヤコブ 2:8~13, Iペテロ 2:9~10
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

解放と贖い
ユダ・バハナ 

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

今週のパラシャット・ハシャブア(モーセ五書の通読箇所)は「イテロ」で、アマレクびととの戦いの後に始まっている。エジプトから不思議な形で脱出し荒野をさまよっている謎の民族のニュースは、パランとツィンの荒野に住む国々の間に広まっていた。後にモアブ人の王バラクについての物語になるが、彼もそんな不思議な民について聞き、恐れた民族の一例だ。
 
そしてミデヤンびとの祭司でモーセの義父だったイテロも、同様にエジプトによる抑圧・奴隷の身から抜け出したイスラエル民族と、それを救った神のしるしと不思議・力強い御手のことを耳にした。そこで彼は娘ツィポラと孫二人、つまりモーセの妻と息子たちと一緒にイスラエルびとが宿営している荒野に向かった。そこで何が起こっているのか、自分の目で見たかったのだろう。 

モーセと彼の家庭

息子に割礼を施すツィポラとモーセ
(outlawbiblestudent.org より)

ここで大きな疑問が浮上する。
モーセとツィポラという地理的に離れていた夫婦は、どうなったのか?離縁したのか?それともモーセはエジプトのファラオに立ち向かおうとした時、妻子を危険にさらさないようにミデヤンに残したのか?
モーセは当時の世界で最大の権力者と対峙する際、家族が巻き込まれることを心配していたのかもしれない。
 
しかし出エジプト記4章によると、それが理由ではないことが見えてくる。
モーセがエジプトに向かう際、彼が妻のツィポラと二人の息子を連れて行ったことが書かれている。さらにツィポラは息子たちに割礼をしてモーセの命を救っている(出エジ4:20~26)。しかし彼女と子供たちはここから、忽然と姿を消している。
ツィポラたちはいつ、どのようにミデヤンに戻ったのか。ファラオとモーセ・アロンの交渉と十の災い、そして最終的な贖い(出エジプト)まで、実際にどれだけの時間がかかったのだろうか?
ツィポラとモーセの息子たちはどうなったか、私たちは知り得ない。これらの疑問は疑問のままだ。ミドラシュ(ユダヤの賢人による聖書解釈)の1つには、モーセの息子ゲルショムとエリエゼルは約束の地に入る特権を得たというが、それはトーラー自体からは明らかではない。
 
トーラー(モーセ五書)では父祖たちについて、サラの笑いや彼女とハガルとの関係性など、個々の感情が窺い知れる場所が、特に創世記には多々あった。アブラハム・イサク・ヤコブの家族の様子やその中の関係、時にはスキャンダルなどが創世記という書の主題だったとも言える。しかし出エジプト記に入ると、それが全く見えなくなる。
私たちは指導者としてのモーセはよく知っているが、家や家族の前での彼の姿については全く知らないのだ。

家族→ 国への変化 

ヤコブ一家が、60万人を超える民族・国に・・・

これは、「イスラエルびと」というコレクティブ・共同体の、変化に起因する。
家族であれば親密な会話をし噂話や問題なども、距離が近いため耳にする。しかしこの時点で私たちは『家族・小さな一族』から12部族によって構成される『国』となり、ここからのストーリーも国や社会に焦点が当たり、個人的な情報・物語はフォーカスされなくなっているのだ。モーセが国と家族の移行期間であるのは、彼がひとりで民全体の相談を受け裁いていたという、今週のパラシャの一コマからも分かる(出エジ18:13~14)。
 
その様子を見たイテロは、献身的な指導者であるモーセが、民1人1人のために働くことで一日が終わらないように、彼自身はより大きな国・民全体を全体を導くために、この『家族』だった時代からの習慣を変え、『国』に適応させるようモーセに忠告した。裁くという司法府の中で、物事の重要性によってそれに合った長=裁き人・裁判官が担当するという、階層式のシステムを構築する必要があったのだ。
 
そのためにイテロは、誠実で正義を求める信頼できる人々を選ぶようアドバイスした。彼らは貪欲であってはならず、賄賂を取らず、公正に対処する人物でなければ資格はない。そしてその問題が深刻であれば10人の長は50人の長へとそれを引き継ぎ、100・1000人の長にとっても荷が重ければ、最高裁であるモーセが担当する。
トーラーの中にはモーセにとってさえ、複雑すぎる問題がいくつか起こっており、その際にはモーセでさえ神に解決策を求めなければならなかった。民数記のピネハスの物語や、ツェロフハデの娘たちの要求が、その例だ。

そこでモーセは、彼女たちの訴えを主の前に差し出した。

民数記 27:5 

これら主の前に意見をより頼んだところから、謙遜さという重要な教訓を学ぶことができる。モーセは私たちが知る最も謙虚な人だった。 

モーセという人は、地の上のだれにもまさって非常に柔和/謙遜であった。

民数記 12:3 

彼の謙虚さは、神や他の人の話を聞く能力にも反映している。
モーセほどの人が他人の忠告に耳を傾けたのなら、私たちはどれほど他人に耳を傾け、学ぶべきだろうか。最も才能があり最も賢い人々でさえ、その能力と知識は限られている。社会と国家は変更・改善を行い、学ぶべきことが多くある。だからこそ良い忠告に耳を傾け、受け入れることが大切だ。
人は誰からであっても、何か1つは学ぶことがあるからだ。

心持ちに関する第8・9戒 

ハンガリー・ブダペストのグレートシナゴグの屋根の上にある、十戒。
このシナゴグでテオドール・ヘルツェルは育った。

物語は続き、出エジプトの三か月後にイスラエルの子らはシナイ山に近づいた。
これはなんという瞬間、素晴らしい出来事だろうか。臨在を前に興奮すると同時に、恐ろしくもある。神の火がシナイ山へと降り煙と角笛の音・人の声に雷。こうしてイスラエルの民は、十戒を受け取る。
 
十戒とは何か。十戒がトーラーの中心なのは、なぜだろうか。 

わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
あなたにはわたし以外に、ほかの神があってはならない。

出エジプト記 20:2~3

この究極的な真理を私たちは、自身の信仰と行ないを通して示す必要がある。
 
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない―
十戒は、神が誰であるかの定義から始まる。神は私たちをエジプトから贖った方であり、私たちを自ら創った方だ。そしてトーラーには613の戒めがあり、それは「しなさい」と「してはならない」という肯定的・否定的な戒め・命令がある。特定の戒めを守ることに対しては報いが約束されていたり、罪が定められている。
 
ここでは、十戒最後の戒めに着目してみよう。
欲しがって/むさぼってはならない、というものだ。これは行動ではなく、思考についてだ。そして人が「他人の何かを欲しがる」ことについては、裁くことができない。
たとえば使徒行伝5章のビリーバーの群れでは、共同体に加わったアナニヤとサッピラの事例がある。そこではメンバー全員が自分の財産を売却し、全てを共有し一緒に住んでいた(使徒4:32)。
 
しかしアナニヤとサッピラは自分たちの財産を売ったお金の一部を、欲した。彼らは「むさぼった」ので、その一部を自身の懐に入れ、売却した土地の本当の値段について嘘をついたのだ。新約聖書の使徒たちは「むさぼっている/欲する」ことは裁くことができないので、それについては非難しなかった。しかしペテロは、彼らが嘘をつき「欺いている」という点について非難した。彼らは人だけでなく、聖霊・神に嘘をついたのだ(5:4)。
 
このように「欲しがってはならない」の戒めは「殺して・姦淫してはならない」などの戒めとは大きく異なる。後者はその基準が明確で、それを満たしているか否かの白黒がはっきりするものだからだ。しかしイェシュア・新約聖書は「隣人をあなた自身のように愛せよ」や「欲しがってはならない」といった、基準が人の目には不明確な、前者のような内面にフォーカスした戒めを強調している。

 イェシュア・新約聖書による律法の『成就』

山上の垂訓教会
「律法を成就するために来た」と教えたのは、このガリラヤ湖畔。
(waynestiles.com より)

これらの戒めは私たちの気持ち・心理状態についてのものだが、人はどうやって考え・感情をコントロールできるだろうか。新約聖書とイェシュアは、トーラー/律法が非常に深いものであると語っている。それらはただ単に「する⇔しない」という目に見えるものを規制する、というものだけでなく、それよりもはるかに深いものだ。律法は深く、心に触れる。これは、イェシュアと新約聖書によって世界にもたらされた、偉大な啓示だ。
 
これは全く新しい、今までになかったことというイメージとは少し違う。
律法と預言者は、神がその律法を私たちの心に書くとすでに教えているからだ。しかしイェシュアと新約聖書は、根本的な変化の必要性を語り、それに対し私たちに責任を取るよう求めている。イェシュアは戒めが持つ文字通りの意味の上に新たな深みを重ね、もたらした。
彼は私たちの心に、神の律法を書き刻むよう求めている。
 
イエシュアは、こう宣言している― 

わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。
廃棄するためではなく成就するために来たのです。

マタイ 5:17 

イェシュアは律法を廃止するために来たのではなく、私たちの心に律法を書くという成就のために来た。そして彼は私たちにこう教えている―「殺してはならない」という戒めは取り消されなかったどころか、その意味合いとそれを守るための条件はより大きく、厳しいものとなった。イェシュアは「人の魂を殺すこと」も禁じており、そこから私たちは他人の心を傷つけてはならない。それは単純な「殺すな」だけではなく、別の次元になっている。
 
同様にイェシュアが私たちに「姦淫するな」という戒めについて教える時、それは戒めが取り消されたのではなく、心に書き付けられたのだ。私たちはその点について、心に留めなければならない。もし私たちが欲望を持って他人を見たならば、それは心の中で姦淫を犯し、戒めを破ったことになるのだ。
 
山上の垂訓はマタイによる福音書の5章から始まり、第7章まで続く。ここにはルールとそのための具体的な指示、そしてそれを満たすための必要条件が言及されている。このスタイルは私たちユダヤ人が、「ハラハ(ユダヤ法)」と呼ばれるユダヤ教的ガイドラインと同じ構成になっている。

山上の垂訓を読むと、イェシュアは神の戒めを目に見えるレベルで守るだけでなく、心に留めて内面化するよう求めている。私たちは神の言葉を外面的に身に付けるのではなく、内なる私たちの存在の核となる部分に適用し、組み込まなければならない。 

新約、そして究極のいけにえ

(ynetnews.com より)

『新約』という言葉を聞くと、多くがエレミヤ31章を連想する。エレミヤは私たちに「新しい契約」を約束、預言している。それはどういう意味だろうか。新しい一連の数多くある「~せよ・してはならない」という規則について語っているのだろうか。それとも、神によって与えられた戒めと言葉を心に刻めという意味か?エレミヤはドライな規則か愛・御言葉・望み―どちらについて語っているのか? 

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである
──主のことば──。
わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

エレミヤ31:33 

ヘブル人への手紙は、エレミヤのこの新しい契約の預言を8・10章と二度引用している。
第8章はおそらく新約聖書の中で最も長い引用だ。それは何のためだろうか?ヘブル人への手紙の著者は、自身の時代とエレミヤの時代の間に類似性を見出した。そしてこれは歴史的に正しかった― エレミヤは第一神殿が破壊される前後であり、ヘブル人への手紙は第二神殿崩壊前後に書かれている。そして、預言者エレミヤの時代のように、第二神殿崩壊直前の紀元後60年代は宗教制度やその指導者は腐敗し、人々は(現実的そして霊的にも)捕囚へと向かっていた。恐れと不確実性、倫理的腐敗がイスラエル・ユダヤ人の心を満たしていた。

(thetorah.com より)

そしてヘブル人への手紙はエレミヤと同様、崩壊を生き延びる民に対して希望を与えようとしている。神の定めは免れるものではなく、エルサレムは崩壊し人々は捕囚に行く。しかし神はご自分の民を捨てられることはない。来るべき日に契約は成就され、イスラエルは彼らの物質的そして霊的な相続財産に戻ることができるだろう。
そしてエレミヤ・ヘブル人への手紙という聖書時代の人々も、現代の私たちも― 直面しているのは、適切な祭司も神殿もいけにえもないという不思議な現実だ。
 
適切なきよめの方法がないという現実。
そしてヘブル人への手紙が書かれた時代、神殿は破壊され地上における神権制度は終わりを迎えた。そんな時代の移り変わりからこの手紙の目的は、祭司の奉仕ときよめの仕事を天の大祭司、神の右の座にいるイェシュアに移行することだった。 

雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

ヘブル人への手紙 9:13~14 

ヘブル人への手紙の8章から10章は、人間の罪からのきよめ、神権といけにえに関する律法の問題に焦点を当てている。
 
この新約聖書の手紙は、メシアの血が私たちの生活をきよめ、罪からきよめたと教えている。エルサレム・地上に大祭司が不在でも、私たちにはもっと良いもの、究極的で完全な大祭司そして同時にいけにえがある―
メシア・イェシュア(イエス・キリスト)だ。
 
それ以前は毎年何度も繰り返し、罪ときよめのためにいけにえを捧げなければならなかった。しかしイェシュア以後の時代を生きる私たちは、そうではない!究極のいけにえが、すべての人のために捧げられたからだ。
 
完全な方法で、彼は全世界の罪のためのいけにえとなられた。
このヘブル人への手紙の解釈は、私たちすべてを神の御前に純粋できよいものにする。
 
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

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