第17:イテロ
基本情報
パラシャ期間:2023年2月5日~2月11日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 18:1 ~ 20:26
ハフタラ(預言書) イザヤ 6:1~7:6, 9:5~6
新約聖書 ヤコブ 2:8~13, Iペテロ 2:9~10
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
聖であることへのガイドライン
ヨセフ・シュラム
今週のパラシャ『イテロ』では、世界中のシナゴグでシナイ山での十戒授与が朗読される。もちろんイスラエルもだが、これは人類史上で考えても最も重要なイベントの1つである。聖書以上にこの世界に対して影響を与えた法律はなく、聖書のなかでもこの荘厳なシナイ山でのトーラー授与は根幹となる部分だ。
しかしそんなイスラエルに対して与えられた十戒のパラシャが、ミディアンびとのイテロという名で呼ばれているのも非常に興味深い。
ミディアンびとからの助言―
今週のパラシャはモーセのしゅうとイテロが、モーセがイスラエル民族に対してどのような働き方をしているのかを、注視しているところから始まっている。
イテロは最高指導者がどうあるべきかについて、よく知っていた。これは21世紀の企業や団体の舵取りにも通じる、現代的な運営方法だ。当時は紀元前1300~1200年頃。そんな時代に、このような現代的文化をこの異教の祭司イテロがすでに知っていたことは大きな驚きだ。そしてそれをモーセに教えたこと、またモーセが聞く耳を持っていたことを聖書は描いている。
このシステムは現代でも健康的な企業や団体、さらには自治体や国家の運営にまで適用されているのだが、トーラーよりも前に異邦人である異教の祭司が知っており、彼によってイスラエルへもたらされた。
このトーラーの中で最も神聖な出来事の直前に、聖霊は異邦人からモーセが『リーダー論』を学ぶべきだと考えたのだ。
出エジプト記を読めば、モーセは「神の友」だったことが分かる―
そんな神と膝を突き合わすように語ったモーセが、指導者としてあるべき姿の『いろは』を、異邦人から学んだのである。この事実は、まさに神はある民族のみをえこひいきする方ではないことを証明しており、私が大好きな聖書の一場面だ。
ミシュナ(200年前後に編纂された最古のラビ文献・口伝律法)の『アボット(父祖)篇』には、こんな言葉がある―
このミシュナの言葉を借りると、モーセは偉大な賢人だった。異邦の神に仕えるイテロに対して謙虚に聞く耳があり、彼から学んで知恵・賢さを吸収した。トーラーにはそんなモーセがこうも表されている。
聖別とは分け、ボーダーを設けること
私たちがこのパラシャから学ぶべきもう1つの重要なポイントは、創造主・全能の神との対面・交わりを気軽なものと捉えることの、危険性だ。時として多くのビリーバーは、神との対面をあまりにカジュアルに捉えている節がある。
これに関しては、この聖句から私たちはヒントを得られる。
イスラエルに居るイェシュアの弟子たちへの老婆心かも知れないが、彼らの多くが神を拝することとは聖別された行為であることを再確認し、このトーラーの箇所から礼拝に出席する際のドレスコードなどについても、真剣に考える必要があるのではないか、と私は考える。
ユダヤの伝統には「シャバット(安息日)の服装」という考えがあり、他の6日間から分けられ=聖別された日に、いつもよりもフォーマルな服装を着ることでシャバットを分け、聖別するという習慣がある。もちろんいつもの服装でも神を拝する時間を「聖別」することは出来るだろうが、服を変えるなどといった行為は意味のあるものだと私は考える。
神を拝すること(礼拝)は、神と対面し、聖別されることなのだから、気軽な態度ではいけない。私たちは次のような、基本的なエチケットを知るべきだ。
神と会うための準備として、自身を聖別するための時間を持とう。
聖なるものとする/神聖にする、という行為は神に捧げるために(一見同質な)他のものと引き離し、分けるという意だ。
イスラエルであれば首相や大統領など国の元首と会う際、クロックスやサンダルなど海に行くような恰好で、表敬訪問する人は居ないだろう。海に行く格好と首相と会いに行く時、私たちは全く違う格好をしているように、それぞれが「神に会いに行く際の服装」を考えるべきだ。
(自身がそれぞれ聖別という行為に最もふさわしい服装を考えればよいため、カジュアル=悪ではない。)しかしどんな服装でも良いが、最低でも清潔感のある服を着てくるべきだ。12世紀の聖書や口伝律法の偉大な解釈者である、ラッシーは「服を洗え」と命じている。
この洗うという動詞は「水で清める=バプテスマ・洗礼」と同じ単語であり、彼が言うところの霊的な理由のために清める、という聖書に基づくユダヤ的な考えは、水のバプテスマの霊的背景にもなっている。聖別=分けて離す、なのだからそれぞれが聖と俗や、神と交わるという特別な時間・空間と日常のそれを分け、実践すべきだ。
このハイテク社会において、私たちは『時間』や『空間』が、ボーダーレス化している文化を生きている。スマホとパソコンがあれば、いつ・どこでも・どんな格好でも働けるようになり、このコロナによる2・3年間はその流れをさらに加速させた。
しかし今週のパラシャでは、そんな無くなりつつある『ボーダーの大切さ』が説かれている。神は私たち人間に「場所」や「時間」にボーダーを設け、分け=聖別することを望んでおられるのだ。
神は無限・ボーダーレスではあるが、私たちは有限でありボーダーがある。そして神の計画にも必ず「始め」と「終わり」があり、私たちが参画するすべてのプロセスにも始め・終わりという、ボーダーがあるのだ。
十戒と行いの重要性―
今週のパラシャで皆さまと分かち合いたい、最後のポイントがこのパラシャのクライマックス、十戒だ。これは神がご自分の指で板に刻まれてモーセに与えられたものだが、最古の法典ではない。
モーセの律法よりも1000年ほど古い法典も、人類史には見られる。
ハンムラビやウル・ナンムなどの、メソポタミアの法典がよく知られる例だ。十戒はこの2つの法典と比べると、社会的な公正をより重視したものであり、人の権利についての尊重が見られるなど、神がイスラエル民族に与えられた律法は、法律としてもたいへん優れているのが分かる。
類似点も相違点も多いのだが、ここでは私が考える2つのポイントを紹介したい。
① 十戒は他の異教の古代法典と比べると、簡潔で短いものになっている。
② 社会的な平等や配慮、そして人の行為とその結果として生じる罪などに対する予見では、他の法典たちよりも優れている。
私たちが住む多くの国においてこの十戒は、「社会の基盤になっている」とされている。しかし私たちは(様々な形をした)偶像崇拝が私たちの人生、そして子供たちの人生を支配しないよう、その社会における十戒の置かれた位置について再考し、十戒を守り続けなければならない。
ポストモダンの現代社会において、(上記のように)当然のものだとされる十戒でさえその場所を失い、社会や国ぐるみでの明白な十戒違反が見られるからだ。
十戒への違反が見過ごされることはなく、その悪に対しては神による審判と罰が下るだろう。
さて、シナイ山で神がイスラエル民族に与えたこの十戒を、イェシュア(イエス)は永遠の命を得たいと言った青年に対し、勧めている(マタイ19:16~)。
私はここで「勧め」という言葉を使ったが、実際にはイェシュアは十戒を守るよう命じており、ここから永遠の命を受けるための『第1段階の条件』が十戒であることが分かる。
ヤコブの手紙から、私たちは次のような原則を学ぶことができる。
確かに間違いなく、私たちは神の恵みによって救われ、過去・現在・未来において完全に救われている。全ては神の恵みのみによるものだ。
しかしそれは、神からの戒めを行うために私たちがベストを尽くすことが前提としてあり、それを守る・行うことができなかった際に、神の恵みのみによって私たちは永遠の命にあずかる特権を有している、というのが正しい理解だ。
十戒授与とシャブオット、そしてペンテコステ―
ペンテコステとも呼ばれるシャブオット(週の祭・五旬節)は、使徒の働き2章に登場するが、これはシナイ山で起こった最初のシャブオット・ペンテコステをなぞっている。そして出エジプト記20:18~20で起こった出来事が、ペテロをはじめ使徒たちがシオンの山の屋上の部屋で集まった時に、再び起こっている。
出エジプト記20章:
使徒行伝2章:
そしてこれは、イザヤの預言の成就でもある―
使徒の働き2章で起こったことはシャブオット、そしてシナイ山でのトーラー授与の成就であり、エルサレムで起こった『第2のトーラー授与』の奇跡なのだ。
そしてこれによって、諸国民が神のトーラー(十戒・教え)とエルサレムを知り、それに繋がれるに至ったのである。
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