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原稿用紙5枚の掌編小説「もう一度」

群馬県の地方紙上毛新聞の「上毛文芸」に応募して入選した作品ですが、令和4年度の掌編小説最優秀賞に選出されました。
 母の介護をしながら、交わされた言葉やささやかな出来事をもとに、小さな物語を綴ってみました。今回の作品はその中の一遍です。実際のエピソードをほんの少し盛り込んではいますが、概ね作者の創作です。      

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 降り出した雨が、ガラス窓を筋となって音もなく流れ落ちていく。交わす言葉は他愛のないものだった。話すべきことは他にもあるような気もするが、言葉が見つからなかった。二人の間に生まれた沈黙が、私にはいたたまれなかった。

「じゃあ、また来るよ」

 そう言いおいて席を立つ私に、母はベッドに横になったまま小声で言う。

「ありがとうね。運転気をつけて。ライトは早めに点けるんだよ」
「分かってるよ」

 私はぶっきらぼうに答える。いい大人になっても、母にとって私はまだまだ子供なのだ。病室の扉の取っ手を掴んで振り返ると、母は布団から出した手をサヨナラというふうにグーパーグーパ―させている。その様子が、私には幼い子供のように見えた。

 立ち並ぶ店の看板が灯り、街は夜に向かおうとしている。私はいつの間にか車のライトを点灯させているのに気づいた。鬱陶しく思いながらも、母の言いつけをしっかり守っている自分がなんだかおかしかった。

 渋滞の時間にはまり、車の流れは遅々として進まなくなった。時おり鳴り響くヒステリックなクラクションの音が、いらついた気持ちを逆撫でする。私は手持ち無沙汰にカーラジオのスイッチを入れた。流れてきたのは古い日本映画の主題歌だった。母への思慕を英訳したものだった。不意に私の胸に熱いものが込み上げてきた。私は乱暴にスイッチを切った。歌は消えても、私の心を覆った暗雲は消えることはなかった。

 フロントガラス越しに見える信号のランプが滲んで見えるのは、雨のせいだけではない。私は数日前に医者から告げられた言葉を思い出していた。母の患った病に治る見込みはなく、延命の処置をするかどうか、考えておくようにというものだった。

 それ以来、私には当たり前すぎて気にも留めなかった母との関わりや言葉のやり取り、その一つひとつが、今やかけがえのないものになりつつあることに気づいた。別れ際に手を振っていた母の姿が脳裏に浮かんだ。その頼りない姿を思い浮かべながら、私は二度と取り戻せない時間の多さと、残された時間が僅かであることの現実をあらためて感じた。

 車は数メートル進んだかと思うと停まり、また思い出したように進んでは停まる緩慢な動作を繰り返している。その間に、私はある言葉を呪文のように呟いていた。

「もう一度家に帰れたら・・・もう一家に帰れた・・・」

 それは叶うことのない願いかも知れないが、私はその言葉に縋りついた。親孝行とは無縁に生きてきた自分に、今さらしてやれることなどたかが知れているだろう。それでもせめてもう一度、母を家に連れて帰りたい。

「もう一度家に帰れたら・・・もう一度家に帰れたら・・・」

 しかしそのあとの言葉が思いつかない。運よく母をもう一度家に連れて帰ることができたとして、なにをどうしたら母は喜んでくれるのだろう。どうしたら母の残された時間を豊かなものにできるのだろう。離れて暮らしているということもあるが、私は母が日々の暮らしの中で、なにを楽しみに生きてきたのかさえ知ってはいなかった。

 三年前に父が逝った。それ以来母は一人暮らしだった。今後、母が家で療養するようになったら、自分は母と同居して母の面倒を見ることに決めていた。職場まではだいぶ遠くはなるが、なんとかなるだろう。

「とりあえず風呂だな」

 私はまたぽつりと呟いた。母は入院してから一度も風呂に入っていないと言っていた。家に帰ったら、真っ先に入れてやろう。あんなに小さな母だもの、抱きかかえて入れてやるくらい簡単なものだ。そう言えば、母は宮沢賢治の童話が好きで、若い頃によく読んでいた。毎晩枕元で賢治を読んでやろう。それと家の二階の掃除だ。足腰が弱ってからは階段を登るのが億劫になり、掃除もままならないのを母は嘆いていた。

「やることは結構あるじゃないか」

 私は胸の奥に小さな希望が灯るのを感じた。それはこれから私と母が紡いでゆく生活の、小さな物語のようだった。特別なことはしなくていいのだ。これまで作り上げてきた物語を、これからも静かに物語っていけばそれでいい。それが今の私にできる唯一のことなのだ。

 前方の信号機が青に変わり、車の列はゆっくりと動き出した。赤に変わるまでに渡り切れれば、母はきっと帰ってくることができる。なんの根拠もなく、私は勝手にそう決めた。

「変わるなよ・・・変わるなよ・・・」

 車のハンドルを力いっぱい握りながら、私は祈るような思いでそう呟いていた。
 

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