随筆「習慣」

 ある週末の午後、行きつけの本屋をのぞいた。欲しい本があったわけではない。ただ本のある空間で、漠然と過ごす時間が好きなのだ。思いがけず読みたい本に出会えれば、それはまさに至福の時といってもいい。

 今回もそんな出会いを期待していたのだが、残念ながら触手が動くものはなかった。こんな日もあるさ・・・私はそう自分にいい聞かせながら店を出ようとした。

 と、その時、入り口近くの新刊本コーナーに平積みされた、一冊の単行本に目が留まった。その業界では著名な料理評論家が書いたエッセイ集だ。

――母に読ませてやりたい。

 私は瞬間的にそう思い、その本に手を伸ばしかけて――止めた。私の胸に去来したもうひとつの思いがそうさせたのだ。

――母は、もういない。

 母は本が好きな人だった。気に入った本は何度も読み返した。私が読書好きになったのは母の影響かも知れない。誕生日や母の日、クリスマスのプレゼントにも私は本を贈った。

――ありがとう。

 そういって、本の表紙を撫でる母の姿を見るのが、私は嬉しかった。

 母が病に倒れたのは半年前のことだ。それからというもの、定期的な受診の他に外に出る機会のめっきり減った母にとって、読書は残された楽しみの大事なひとつになった。料理関係だけでなく、旅やガーデニングの本。さらに川柳にまで、母の興味は多岐に渡った。私の母のための本探しは加速し、いつかしら習慣となった。本から得る感動が滋養となり、やがて母の病を回復させるのだと、私は本気で信じていたのかも知れない。

 そんな母も、二か月前にこの世を去った。母に本を贈ることはもうないのだ。それなのに、母に読ませたい本を探す習慣だけは私の中で消えずにいた。料理評論家のエッセイ集に目を留めたのも、必要のなくなったはずの習慣からだった。母は同じ評論家の書いた本を以前からよく読んでいたから。

 私たちには、その人と共に生きて生活していたころの習慣が、その人がいなくなった後も根強く残っている。肉親や親しい人を亡くしたあとで、残された者たちが胸に染みるような悲しみを感じるのは、その習慣がもはや意味のないことに改めて気づいた時ではないだろうか。そして私たちはその不条理さの前で途方に暮れ、悲しみ、そして怒りさえ覚える。

 古い習慣の上に、新しい習慣が上書きされるまで、きっとこの葛藤は続くのだろう。

 悲しみのプロセスを潜りぬけ、たとえ半歩でも新しい生活に歩み出すまでの道のりに、近道はないようだ。そこに辿り着くまでに要する時間に、幾分かの違いはあるにしても、辿るべき道順は端折ることはできないのだろう。

 私もまた、その途上にいる。



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

映画「トニー滝谷」のサウンド・トラックを聴きながら、この文章を書いています。坂本龍一さんの訃報は少なからずショックでした。高橋幸宏さんのあとを追うように逝ってしまわれましたね。素晴らしい音楽を残して下さったことに感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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