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原稿用紙5枚の掌編小説『夏の帰り道』

 桑畑の一本道を、僕はランドセルを背負って歩いていた。大人の背丈ほどもある桑の木が道の両側を囲み、緑の葉のムッとする匂いが夏の光の中に漂っていた。

 その日の午後、僕は学校で熱を出し、保健室のベッドに横になっていた。体調がいくらか落ち着き、保健の先生から帰宅の許可が出たのは、放課後の時間をだいぶ過ぎてからだった。先生は軽い日射病だろうと言っていた。

 陽が西に傾きかけた道を歩いているのは僕一人だけで、他に人の姿はなかった。熱は完全には下がり切っておらず、倦怠感のせいで足取りも重かった。

 そのときだった。後ろからチリンチリンとベルの音がして、一台の自転車が勢いよく僕の横を通り抜けていった。その瞬間、爽やかな石鹸の匂いがした。乗っているのはセーラー服を着た女学生だった。僕の通う小学校の隣に女子高がある。きっとそこの生徒だろう。

 自転車は五六メートル行き過ぎたところで急停車すると、女学生が僕を振り向いて言った。

「あなた、○○君の弟でしょう」

 ○○がよく聞き取れなかったが、僕はその快活な言い方につられて思わずウンとうなづいてしまった。僕は一人っ子で兄はいないのだけれど。

「途中まで乗せてってあげる。後ろに乗って」

 女学生はそう言って自転車の荷台をポンポンと叩いた。きっとこの女学生は僕を他の誰かと勘違いしているのだろう。僕はそのことを伝えようとしたが口ごもってしまい、うまく言葉にできずに立ち尽くしていた。そんな僕に女学生は手招きしながら言った。

「遠慮しなくていいの。早くいらっしゃい」
 
 僕は断ろうとも思ったが、それ以上にこの暑さの中を歩くことが辛かった。僕はすがるように自転車の荷台に乗った。

 自転車は桑畑に囲まれた道を疾走した。僕は両手を女学生の腰に回してしがみついていた。でも、そうすることがはしたないことに思えて、僕は手を緩めた。

「しっかりつかまってないと危ないよ!」

 すかさず女学生の元気のいい声が聞こえた。自転車はさらにスピードを上げた。僕は振り落とされないように、それまで以上に力を込めて女学生にしがみついた。女学生の長い髪が僕の顔に触れた。石鹸の匂いは女学生の髪の匂いだった。それは懐かしい匂いだった。ずっと前にも僕はこんな匂いに包まれていたことがある。でもそれがいつだったのか思い出せない――。

 自転車は桑畑を抜け、土手に続く坂道に差しかかった。女学生は腰を浮かし気味にして力強くペダルを踏んだ。女学生のお尻が僕の眼のまえで左右に揺れた。そして坂道を登り切り土手に出た。するとなぜか僕が考えているのとは逆方向に自転車は進み出した。女学生の息遣いが聞こえた。

「こっちは逆だよ」

 僕のそう言う言葉も女学生の耳には届かなかったらしい。やはりこの女学生は僕を誰かと間違えているのだ。

――僕はどこへ連れていかれるのだろう。なんとかしないと大変なことになるぞ。

 そう思いながらも、僕はこのままでいることを望んでいる自分に気づいた。それはなぜなんだろう。きっとこの髪の匂いのせいだ。そして女学生の体に自分の体を密着させている心地よさ。しなやかで、そして若い躍動感に満ちた感触。僕はそこに心の安らぎのようなものさえ感じながら、実際の自分よりも、もっと幼い子供になった気がした。

 自転車は土手の上をしばらく進み、橋を渡った。橋の下を流れる川で、僕はよく魚釣りをした。子供が短い釣竿で魚釣りのするのに、ちょうど良い幅を持った川だった。けれどそこから先は僕にとって未知の土地だった。僕の家からはだいぶ遠くまで来てしまったことになる。自転車は古くて大きな養蚕農家の間を右に左へと曲がり、ある三叉路に来てようやく止まった。

「じゃあここまでね」

 女学生が僕を振り返り言った。僕は荷台から降りた。

「またね、さよなら」

 女学生はそう言い残して颯爽と走り去って行った。石鹸の匂いだけが残った。僕は自転車に乗せられて辿ってきた道をトボトボと歩き出した。

――日が暮れるまでに家に戻れるだろうか。

 そんな不安を抱きながら、やっと見知った道まで戻って来たところで、運よく近所の農家のおじさんの運転する耕運機に拾われた。耕運機の荷台に寝そべって、僕は女学生の腰にしがみついていた時の感触を思い出していた。そしてそれは、僕の心を慰撫するように夢の中に引き込もうとしていた。熱っぽさも倦怠感もいつのまにか消えていた。

 空にぽっかり夕日に染まりかけた雲が浮かんでいる。

――母さんの顔に似てるな。

 そんなことを考えながら、いつしか僕は眠りに落ちていった。



最後まで読んで下さってありがとうございます。
小学生時代の小さなエピソードをもとに、こんな物語を書いてみました。


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