掌編小説「大きくなったら」
病院の待合室で、何気なく目の合った小さな男の子がトコトコと私の傍らに来ると、私の顔を見上げて言った。
「ぼく、おおきくなったらおいしゃさんになるんだよ」
この子は私を誰かと間違えているのだろうか。それとも単なる思いつきなのか。その唐突さに私が戸惑っていると、若い母親が慌ててやって来て、「すいません」と言って男の子を連れて行った。
順番を待つ患者たちの目が私たちに集まっている。私がどんな反応を見せるのか、彼らや彼女らは注目しているのだろう。私はと言えば、若い母親に向けてひきつった愛想笑いを返しただけだった。
はたから見れば微笑ましい光景なのだろうが、私は子供が苦手だ。こんなとき、返す言葉をすぐに思いつくことなど到底できない。それに今の私には目の前の子供を楽しませる心の余裕などなかった。私は何事もなかったような顔で、備え付けの雑誌を手に取って眺めた。
「子供って面白いわね」と、声がした。声の主は隣に座っている老婦人だった。
「いきなり突拍子もないことを言い出したりして」
「ええ・・・まあ」
私はぶっきら棒な返事をした。それきり会話は途切れた。生命保険の広告ページを眺めながら、私の耳には今しがたの男の子の言葉がリフレインしていた。
「大きくなったお医者さんになるんだよ」
そして考えた。はて、私は子供のころ何になりたかったんだっけ・・・?
私は自分自身の気鬱を拭うために、意識してそのことを考えた。
カーレーサー。
科学特捜隊の隊員。
宇宙飛行士。
そして・・・。
なりたい対象はコロコロ変わったが、なにひとつ実現することはなかった。やがて「大きくなったら・・・」のフレーズは、少年期の終わりとともにあっけなく私から消えた。
「あなたはどこがお悪いの?」
隣の老婦人が言った。誰に向けた言葉なのか分からず、老婦人の顔を見ると、彼女は私を見て微笑んでいた。私に向けて言ったのだ。
「いや、その・・・ちょっと心臓が」
私は口ごもりながら答えた・
「あら、私と一緒。私は狭心症なのよ。放っておいたら心筋梗塞になるなんて脅されちゃって」
老婦人はあっけらかんと言った。
「もうこの歳ですもの、なにが起きても不思議はないんだけど、人間て図々しいものね。命が脅かされた途端にやりたいことが次々と出てきちゃたりして。だから今は、ここでくたばってたまるもんかって思ってるの。死ぬのはやりたいことをやり尽してからだって。あなたはまだお若いんだもの、しっかり治しなさいよ」
と、母親のような口調で老婦人は言った。
老婦人から見ればまだ若いだろうが、私とて何が起きてもおかしくない歳ではあるのだ。
わたしはこれから、先日受けた精密検査の結果を聞く手はずになっている。場合によってはこれからの生活が大きく捻じ曲げられることにもなるだろう。その予感は多分にある。ここ数日の間、その予感は厚い黒雲のように私の心を覆っていたのが、老婦人の話を聞きながら、黒雲の切れ間から一筋の陽が差すような気がした。それとともに、男の子からかけられた言葉が、名状しがたいリアリティをもって蘇ってくるのを私は感じた。
それは、この切羽詰まった状況のなかで、なお希望に縋ろうとする私の無意識が、忘れ去ったはずの少年の心を呼び起こしたとも言えるだろう。
「大きくなったら・・・」
それは誰にも邪魔することのできない無邪気な夢だ。いくつになったって、そんな夢を持つことは罪ではないのではないか。私はなにかに抗うように、そう心のなかで呟いた。
検査結果が凶と出るか吉と出るかは分からない。運よく吉と出た暁にはもういちど夢を持つのだ。少年のころのような突拍子もない夢を。誰に笑われたってかまうものか。夢を抱いて生きてやるのだ。生きている実感を感じられる、そんな夢を見つけるのだ。ここでくたばってたまるか。
私の名を呼ぶアナウンスが聞こえた。私は腰を上げた。
「行ってらっしゃい」
老婦人が声をかけてくれた。
「行ってきます!」
そう答えて私は診察室へ向かって歩き出した。
完
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