no.7 ツマラナイ人

さて、そろそろ五月病という怠惰の免罪符から逃れられない時期になってきたね。仕事や、学業は順調だろうか。僕はとくると、未だ怠惰を突き通している模様である。よもや、他人行儀にnoteを書いている暇なんてものは無いのだが、言い訳をさせて欲しい。僕は今、語学留学を控えている身であり、何事も成し難い状況なのだ。現状維持がせいぜいである。怠惰な弱輩を許してくれ。

最近は感化されるものが少ない。
したがって言葉にしたい事なんて物も無くなってくる。
したがってnoteを更新する事が出来なくなる。
したがって文をかかなくなる。
したがって、文が下手になるのだ。
こうして人は衰退していくのだと、自惚れた言葉を友人に溢した。「衰退して行くほど、貴方はそもそも栄えて無いわよ」心を抉られる。だが、僕も常々感じるのだ。この体は、つくづく普通だと。脳ミソからつま先まで五臓六腑までもが、つくづく一般的で量産的で典型的だと、そう感じるのだ。気分が沈下する時というのは大体、何かを過大評価してしまったと言う誤認にフォーカスを当てる事が私たちは出来ない傾向にある。事が重大であればあるほどそうなのだ。そうして幻想に落ち込み、訳もわからず、自身の生死を揺らめかす。馬鹿馬鹿しさの骨頂である。なんだか誤解されそうだな。

本質を見抜く事の難題さと、重要性から視線を外した大人は本当につまらないと感じる。或いは、賢く無いと言い換えることも出来るだろうか。主にそれはコミュニケーションで顕著に露出する。
先日バーで前回書いた表現についての話題が出た。当然各々が意見を言い半ば議論になった訳だが(それが悪いことだとは思わない。むしろ、それが醍醐味なのだ)、僕の意見は、表現の根底がエンターテイメントになり、コンテンツとして扱えばそれは消費され消えゆく一方である。というものだ。店員は言う。表現者は成長過程で他者からの影響を必ず受け、そもそも本質的に言えば、個としての実力のみで表現をしていない。加えて現実的、建設的に主体の展望を考えれば、根底はエンターテイメントにならざるを得ないと。
実につまらない返答だと思った。勿論、場の空気を乱す事こそしなかったが、その話題を持って店を去った。
つまらない大人が子供の疑問に答えられない時、或いは本意を捉えきれない時、賢いフリをして無理に答える様は実に惨めで実に未熟であると感じる。そう言う大人が蔓延る時代に生まれた事を憂う事しか出来ない。
初心忘れるべからず

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