目にうつる全ての現象は詩

『やさしさに包まれたなら』の歌詞の有名な一節「目にうつる全ての"こと"は メッセージ」を、僕はなぜか「目にうつる全ての"もの"はメッセージ」だと思い込んでいた。

勝手に読者に甘えて、言い訳をさせてもらう。考えてみれば「目にうつる全ての”こと”」とよりも、「目にうつる全ての"もの"」の方が自然に感じられないだろうか。
「目にうつる全ての”こと”」というのは、ちょっと不思議な感じがする。「目にうつる全ての"もの"」ではなくて、「目にうつる全ての”こと”」とはどういうことだろう?

一旦このテクストから目を離して、周りを見渡してほしい。
あたなの目にはきっと何かしらの"もの"がうつるだろう。しかし、それは純粋に"もの"としてうつっているだろうか?
例えば私の部屋の本棚には、松任谷由実の『ルージュの伝言』という本がある。この本は僕が20代のとき、神保町の鶴谷洋服店という店で古本として買い、私に通読されたあと、私と一緒に幾度かの引越しをし、今は他の本と一緒に、本棚で静かに佇んでいる。
外に目を移してみよう。木がある。これを書いているのは7月ももう終わる頃だ。木は夏の強い日差しで葉の緑を膨らませ、そよ風が吹けば青い空にざわざわと手を振り、蝉の仮宿にもなっている。
そう、本も木も事柄の中にいる。人の目にうつる"もの"は、事柄の中にある"もの"だ。
人には、世界を”もの”として捉えることは出来なくて、”こと”としか捉えられない。目にうつるのは、固定的で他と関係性をもたない純粋な"もの"ではなく、動的で他と様々に関係をもつ、”こと”なのだろう。
"もの"の世界ではなく、事柄の世界だ。

"メッセージ"についても少し考えてみよう。
"メッセージ"は"こと"の受け取り方の一つではないかと思う。目にうつる"こと"を読解していく。能動的な受け取り方だ。
では、他の受け取り方はどうだろうか。例えば、ぼんやりと眺めるというのはどうだろう。これは受動的な受け取り方だろう。これは"メッセージ"ではなく、詩に近いと思う。"こと"をあるがままに受け取り、私の感覚を感じるがままにさせる。
これは、"こと"を"もの"的に捉えているとも思える。もはや”こと”ではなく”現象”と言った方が正確かもしれない。そのように捉えると、”こと”から意味が剥がれ、無意味になり、”メッセージ”ではなく、”詩”になるのではないかと思う。

「目にうつる全てのことはメッセージ」とは違う世界の受け取り方がある。それは、「目にうつる全ての現象は詩」ではないかと私は思う。

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