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青の夢

すっぽりと暗い闇に包まれた田舎の駅。周りには田んぼがあるのだろうか。カエルの声が聞こえてくる。それと鈴虫がさらに遠くからリンリンと。
2時間に一本の3両編成の電車にて、その駅に降り立つ。真っ白い蛍光灯が今にも闇に消されそうに戦っている。ふといい香りが鼻に触れる。ホームの真ん中に蕎麦屋がある。弱い光の中でぽつんしている。カウンターがホームに突き出ている。
カウンターの前に行き、中を除く。中にはうつむいた老人が、白い作務衣を着て、高さが30cmはあろうかというコック帽を被っていた。老人がこちらを見た。とても小さい目だ。少し灰色に濁った黒目。
いらっしゃいも言わずにぼそり「なににする?」とつぶやいた。お品書きにはきつねとたぬきしか書かれていない。あと、純米吟醸一合と書かれている。きつねと純米吟醸を頼んだ。だいぶしわしわの手で蕎麦を鍋に放り込む。
まずは純米吟醸一合が出てきた。とても立派な徳利だった。目が覚めたばかりの目で見るような、淡くぼやけた、色を失いかけていく朝日のような色であり。手触りはさらさらした砂の粒のようだった。なんとも孤独や詫びさを感じる。この弱々しい光は、すべてこの徳利を守るためにあってもいいと言っていいぐらいだ。私の手で包みたくなるが、しかしただ静かに、この世の無常を受け入れているようでもある。注ぎ口の深淵からわずかに揺れる水面が見える。その水面に蛍光灯の光がゆらゆらとゆれ、私はそれに誘われて泳ぎ出すように、お猪口に純米吟醸を注いだ。
なめらかな舌触りと鼻から抜けるほのかな辛み。うまいと言う言葉がこぼれる。これはなていう酒でございましょうか?と聞いたら「日本酒」と答えられたので、銘柄を知りたいですと答えたら、「青の夢」と答えた。知らない銘柄だ。
まるで「青の夢」という言葉が、言霊になったように頭の中でうつらうつらする。徳利に手を添えて、手触りを楽しむ。
きつねそばが無言で出てきた。シンプルなきつね蕎麦だ。自分の思ったシンプルという言葉に引っ掛かりを覚える。シンプルなきつね蕎麦なら、ただきつね蕎麦だと漏らすだけでいいではないか。形容詞を付けないことは不可能なのだろうか。蕎麦の温かさが体をほぐしていく。
店の奥を見たら、店主は椅子に座って寝ていた。火は止めている。顔がほのかに温かくなり、いい気分になってきた。日本酒をもう一合頼もうと声をかけたが、店主は寝言で「また明日ね」というだけなので、諦めて小銭を重しにしてお札をカウンターに置いた。
一瞬自分がどこから来たのか分からなくなった。あちらから来たのか、こちらから来たのか、今電車を降りたところなのか、これから乗るところなのか。そうだ、明日取材があるからここに来て、駅近くにあるという宿に泊まる予定だったんだ。携帯の電源が切れてしまっていたので、店主に道を聞こうとしたら、寝言で店主は道を教えてくれた。そした「また明日ね」と言った。

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