BLANKEY JET CITYの歩き方
かつて私はBLANKEY JET CITYという街の熱狂した観光客だった。BLANKEY JET CITY、それは架空の街である。その頃私はティーンエイジャーで、そして私が訪れたときには、かつてあった架空の街と二重の意味で幻の街だった。
あれから長い時が経った。最近ではその街に行く道は幻のように薄くなっていた。新たに訪れる人も減っていただろう。しかし最近、BLANKEY JET CITYに続く新しい道の建設計画がアナウンスされた(このテクストが読まれる頃には、その道は完成しているだろう)。
これにはかつてBLANKEY JET CITYを訪れ、その街のファンとなった人の多くが喜び、驚いた。そして、この街に新しく訪れる人を増やし、この街を継いでいかなくてはという言う人もあった。かくいう私もまだ訪れたことのない人に、ぜひBLANKEY JET CITYへ旅に出て欲しいと思う。そういうわけで、僕はこの『BLANKEY JET CIYTの歩き方』という、ガイド的なテクストを書くことにした。また、このテクストは、かつての熱狂の中では言葉にすることができなかったBLANKEY JET CITYの魅力について、私自身が出会い直すためのものでもある。
私に書けることは限られいてる。かつてあった架空の街と言ったように、私はリアルタイムでその街を体験してはいない。
故に、私は3つの言葉からこの街の魅力を書く。それは、物語、映像(イメージ)、純粋だ。また、BLANKEY JET CITYは街を建てるにはあまりにも奇妙な地盤の上に建っている。それは緊張感、それもギリギリまで張り詰めた緊張感という地盤の上に立っている。
物語
まずは物語について。しかし物語について語ることは少ない。この街自体が架空であり、物語性を持っている。というより物語そのものだ。
街が物語そのもの自体である以上、歌詞を並べる作業はキリがない。物語についてはたった一言しか言っていないが、次の魅力に移ろうと思う。それは物語とも関連性がある映像(イメージ)だ。
映像(イメージ)
BLANKEY JET CITYの歌には、はっきりと物語ではないのに、でも物語を感じる歌がある。それは映像(イメージ)の断片が散りばめられいてる場合である。それらは断片として統一性がないように思えるが、一つの曲として聴いたとき、不思議なことに物語性を感じる。
物語とイメージは不可分だと思う。例えば小説を読むとき、頭の中にイメージが現れないだろうか。イメージから物語を切り離すことは可能だろう。だが、逆に物語からイメージを切り離すのは難しい。なぜなら、物語はイメージの断片の接続からできている。しかし、ここでは断片が断片性を保っている。断片通しの接続は一つになるほどは強くはなく、弱い接続のまま物語となっている。
この曲ではスリリングなビートにのってイメージの断片が次々と押し寄せる(LIVE盤『LAST DANCE』のバージョンをお勧めする)。この曲も一見するとバラバラのイメージなのだが、音楽によってなぜか一つの物語のようになっている。というより、言葉そのものに物語が与えられている。例えば「二人で脱獄」という歌詞では「脱獄」という言葉が物語性を帯びている。それは状況の説明だけではなく、事象の呼び名でもなく、言葉の持つイメージの力だろう。
言葉そのものがどれだけイメージを持てるか、我々がどれだけイメージを受け取れるか、そしてそれをロックにおいてどれほど可能なのか。これはイメージの試練のようにも思う。
この場合には、言葉が文や音楽にイメージを持たせるだけではなく、文や音楽が言葉にどれだけイメージを持たせることができるかということもなされている。
純粋
この街は純粋だとよく言われる。しかし、そもそも純粋さとはなんだろう。そして一体この街はなぜ純粋だと思われているのだろうか。
純粋さを考えたとき頭に浮かぶのは、子供の心や、純粋無垢、混じり気のないことなどだろう。
この歌は誰もが純粋さを感じるだろう。一言で言い表すと子供のときの心と言えるだろうか。しかし、一旦この子供性(正確には少年性)は置いておいて、取り出してみたい言葉がある。それは”だけ”という言葉だ。ベンジーという愛称で呼ばれるVo,Gtの浅井健一の書く歌には、この”だけ”がよく出てくる。
純粋さ、それは混じり気のないことだとすれば、”だけ”というのは純粋なことだろう。他のものがない状態、ただそれだけの状態。
この”だけ”にそれしかないという切実さと力強さを持たせるのが、この街の緊張感という地盤だ。ただそれだけという切実さが、ヒリヒリと伝わってくる。
そして"だけ"ではなく、一つものに限定させる言葉が多く出てくるといった方が正確かもしれない。
この限定というのは、それ以外の他のものが消えていく、消失の動きとしても描かれる。それは純粋になっていく過程であり、純粋への渇望だろう。
ベンジーの歌詞で純粋さを感じさせる言葉は他にもある。例えば歌詞には少年性を感じるモノがたくさん出てくる。黒いブーツ、サングラス、単車、ジェット機、ピストル、オレンジジュース、メロンソーダ、チリドッグ、キャンディ、ゼリーなど。
むしろ「ベンジーとフェティッシュ」というテーマで考えてみたくもなるが、それは置いておいて、やはりこれらのモノには憧れや少年性を感じる。少年性は、純粋さと繋がることだろう。
もう一度クリスマスと黒いブーツの歌詞を、今度はもう少し長く引用しよう。
ブルーや水という言葉も、純粋と繋がるだろう。BLANKEY JET CITYの水は、澄んでいてとても綺麗なのだ。また、あまり動的ではなく、とても静かだ。
この街にはそんな純粋な人たちへ捧げる歌、もしくは慰めとも言えるような歌もある。それが最後のアルバムに収録された歌、『不良の森』だ。
これは純粋さの後でといった感じもする。汚れが歌われ、しかしそれも美しいことなのかと歌われ、さらに”だけ”など一つもの(純粋)への運動や渇望が、いつかやみんなという多に広がっていく。そしてそこには救いがある。現実は純粋では生きていけない。現実は不純だ。しかし……
以上で私のBLANKEY JET CITYツアーは終了となる。色々と書いたが、とにもかくにも、まずはBLANKEY JET CITYを体験して欲しい。私が書いたことは忘れて構わない。むしろ最初は忘れた方がいいかもしれない。街から一旦戻ったとき、街の魅力を考える一つの参考として使ってもらうぐらいがいいだろう。それに、あれこれ考えながら聴くのは純粋ではないかもしれない。それはBLANKE JET CITYのたった一つだけの法律違反かもしれないとも空想してしまう。
全てが純粋に見えるまでアクセルを強く踏み込み、BLANKEY JET CITYへ旅に出よう。
※この記事のSoundtrackとして、この記事で引用した曲をプレイレストにまとめました。こちらのプレイリストもBLANKEY JET CITYへの旅のきっかけになればうれしい限りです。
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