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翻訳と交流(本の感想とエッセイ)

『ユー・メイド・ミー・ア・ポエット、ガール』

 先日、11月20日にあった文学フリマ東京35にて、エリザベト怜美さんの『ユー・メイド・ミー・ア・ポエット、ガール』という詩集を買った。

 たまたま自分の出品していた本(『会話についての思索』)を見つけてくださって、立ち話などしたり、また詩と翻訳というテーマで少し繋がりもあったので、とても嬉しく、柄にもなく買ってみた。内容はもとより、モノ・ホーミーさんの絵や印刷、製本まで非常に手が込んでいて満足感は高い。
 英語がそれほど得意でないので、まず日本語で通読してみたが、するすると読めてしまって、正直あまり印象が強くなかった。そこで今度は英語の方を読んでみて、分からないところは日本語と対応させてみた。この本は対訳になっているので、こういう読み方ができる。すると、表現したいものの詩的(と言えば良いのかわからないが)な感覚がとても分かるような気がして、しっくりと来た。すると、一つ一つの詩の印象が強いのであまり読むスピードが上がらず、今はすこし置いておいている。
 あとがきを見ると、エリザベト怜美さんはもともと英語で詩を書く。そして後になって、時間を掛けて辞書を引き引き日本語に翻訳されるそうである。翻訳者としての視点を含みつつ、言葉と言葉の間を行ったり来たりすることに特別な意味を見出されているのだと思う。詩を読んでいて、何となくその経験の一端が見えるような気がして非常に面白かった。

 話は少し変わるが、同じ翻訳と文学というテーマで多和田葉子『エクソフォニー:母語の外へ出る旅』という本を読んだ。エクソフォニーとは文学のジャンルの一つで、母語以外の言語で文章を書くことを言う。多和田葉子さんは日本語が母語で、ドイツ語で文学を書くから典型的なエクソフォニーの作家ということになる。そこで筆者は「私は境界を超えたいのではなくて、境界の住人になりたいのだ、とも思った」(岩波書店、2012、39頁)と書いている。「境界を実感できる躊躇いの瞬間に言葉そのもの以上に重要な何かを感じる」(同上)とも。
 ある詩的なイメージとか、小説の中で伝えたいイメージがあったとして、それを翻訳するとき、あるいは、対訳の間を行ったり来たりするときに何かが起きている。それは、それぞれの言語の中だけでは起こり得なかったこと、ある特殊な経験である。私もそういう事が少し気になって『会話についての思索』で取り上げた。
 とはいえ、私が考えたのは、生き生きとした会話(ないし生き生きとした思考)の内部に、「内」「外」の関係ができてくる場合のことである。外側にある外国語の翻訳を通じて、会話の内側に居る人は何かを「知っている」状態と「知らない」状態を自由に行き来できる。そのように、外国語をうまく利用することで、会話は生きているのだと考えた。だからこそ、翻訳がうまくできない特殊な表現(それを仮に詩的なものと捉えたのだった)は、私達が「知っている」「知らない」のどちらにも属さないという奇妙な現実を暴露するのである。
 各言語から互いに翻訳をしようとするとき、各言語の「互いにうまく利用している」状態から抜け出して、言語を上手く共生させる必要がある。そこに色々な躊躇いや、困惑が生じるのだろうと思う。でも同時に、その躊躇いや困惑こそが、私達の意識の現実や各言語固有の表現を肯定してくれるのではないだろうか。


「オフショア(第一号)』

 次に、同じく文学フリマで見つけた「オフショア(第一号)」について書きたい。副題、というか惹句は「アジアを読む文芸誌、創刊。」とあって、すこし時代感のある味わい深いデザインになっている。文学フリマの喧騒のなかでちょっと気になって手に取ってみると、綺麗に全てがまとまっていて、高い完成度を感じざるを得ず、結局買ってしまった。これはもともと山本佳奈子さんが2011年からネットで更新していたメディアを紙へと移行させたものとのことだ。バックナンバーは以下のサイトで見ることができる。

 気楽に読み始めてみると、最初の記事の開始ものの数行でいきなり引き込まれてしまった。得能洋平さんのエッセイ「西成、福清、小白兎」だが、文章がとにかく上手くて、まるで小説のようだった。大阪の「ミナミ」のさらに南、西成区の小さなバーの「小ママ」Sさんと知り合い、そのバーを自由に「サードプレイス(家庭でも職場でもない居心地の良い場所)」のように楽しく利用したこととか、コロナのこと、その後、Sさんの故郷の中国は福清に行ったことなどが書かれている。言語などの勉強が始めに来ない、地続きの国際交流というのはこういったものだと思うと、とても興味が湧いたし、印象深い文章だった。
 これ以外の文章もどれも興味深く、日本に居る移民の方々についての複雑な気持ちを表現した詩作や、台湾の地下ラジオ活動の軌跡、バリ・八重山・奄美の音楽採集と創作であるとか、音声によるアート「平行的玉音軌」(dj sniff)についてのインタビュー、はたまたアジアを舞台にしたポストアポカリプス系の掌編が載っている。
 「アジアを読む」というテーマに沿った文芸誌というのが、読む前は全然想像できなかったが、読むとしっくりと来た。それぞれにアジアとのつながりを感じて、色々な方法で境界を超えて、相手を理解しようとする経験を、やり方によって優劣をつけずに文芸という括りでまとめる。そういう大らかでありながら真摯な態度が新鮮だった。
 私はエスペラントという言語を学んでいて、これは現在の英語の立ち位置のような「国際共通語」としてエスペラントという人工言語を利用しようという運動(エスペラント運動)と関わっている。実際には、国際共通語を云々、という活動は抜きにしても、国際交流のために非常に便利な言語である。何より、エスペラントを勉強して、話せるというだけで仲良くなるハードルがかなり低いのだ。ただし、この運動の弱点は、言語を学習するということが(かなり簡単にできているとは言え)やはり大変だ、という点にある。単に文法を学び、文章を読めるようになるだけでなく、実際に外国の人と会話して、さらに本音で喋って仲良くなるまで話せるようになるにはかなりの努力が必要なのだ。
 今回、この「オフショア」を読んでみて思ったのは、例えばエスペラントで交流をしたとしても、それを何らかの文芸として残していくことはできるのだろうか、ということである。エスペラントで文章を書くことは、前段で述べたように、母語ではない言語で書くわけだから、エクソフォニーということになる。それ自体はとても有意義なことではあるけれど、果たしてどこまで可能なものだろうか。国際交流と言葉で言ってはいても、それを本当に推し進めるために必要な「相手への理解」という点について、私達はどこまで行くことができるのだろうか。

翻訳と交流

 人は言語を通じて交流し、言語を使って文芸的表現をする。言語が多様である以上は、言語を超えた交流も、異なる言語からの文芸の翻訳もずっと変わらずあるものだ。けれども、ここで取り上げた2つの本からみても分かるように、そこに見えてくる景色というのは重なり合いつつ、それぞれに多様だ。
 一方で文芸作品の翻訳や、あるいはエクソフォニー文学の創作ということには、言語それ自体の可変性とか条件に関する興味深い問題がある。それについて考えていくことは、私達が普段何気なく使っている言語に対する意識を拡大して、ある意味で自由にしてくれる。他方で、交流を通して、アジアや外国のことをより深く理解しようとすることには、もちろん言語の習得という側面はあるのだけれど、違和感と結びつきについての総合的な物語でもあるのだ。
 もちろん、これらの渾然一体となった体験を総括して「ただあるがままでよい」とは言い切れない部分が残る。今はまだ読書中だから扱うことはできないが、ローレンス・ヴェヌティ『翻訳のスキャンダル:差異の倫理にむけて』では、翻訳(産業)が暴露する構造的な上下関係を論じている。もとより、国際的な言語間の関係には帝国主義的なものが含まれているから、それを避けることは不可能なのだ。
 私自身は、エスペラントを学んだり使ったりする者として、これら全部を扱うことはできないまでも、視野には納めておきたいと思っている。


front image: "Seashore" by Joe Gratz
link, trimmed for upload (CC BY-NC 2.0)

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