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威圧的な人と反りが合わない背景にあるもの。

仕事ができる人ほどフランクで親しみやすかったりする。一方、しょうもない人ほど自身がいかに凄いかをアピールしてきたりする。

本来なら適当にヨイショしておけばいいもの。なのにその波に上手く乗れず、結果、退職するよう迫られたり、胸ぐらをつかまれたり、給料を支給されなくなったり、部署内で無視されたりして仕事に支障をきたすようになり、退職することを繰り返してきた。

どの会社にも威圧的な人はいる。人間関係の悩みはどの会社にもつきもの。とはいえどうして自分はこんなにも威圧的な人と反りが合わないのだろう。どうして毎回このパターンなのだろうと悩み続けてきた。けれど、最近その理由に気が付いた。

私の母は独善的な性格で、いわゆるクレーマー。母から得意げに語られる武勇伝は尽きることがない。母は相手が誰であろうと持論をぶつけにいく武闘派なのだ。

私はそんな母に辟易して今は精神的な距離をとっている。しかし私の価値観の中に母の価値観が当たり前の方として無意識のうちに入り込んでいることは否めない。

「子供のころから武勇伝として聞かされてきた母の口喧嘩エピソードを通し、私は無意識のうちに母から『時や場所や状況、相手の状況や心情などに構わず、臆すことなく自身の意見をぶつけることは、世界基準であり、普遍的な正義である』との教訓を得ていた。そしてそれが生きづらさに繋がっているのかもしれない」

母の武勇伝を聞きながらふと思った。

母の武勇伝は果たして本当に武勇伝なのだろうか???

処世術として長いものに巻かれることが必ずしも正解とは限らない。けれど、正論をぶつけることも必ずしも状況を良くするとは限らない。

人は分別よりも感情で動く。そしてコミュニケーションは手段にすぎず、その先には必ず目的がある。目的を達成するためにその時々で、どのような態度をとり、言葉を投げかけるのか。無数の選択肢の中からその時々で最適な手段をとることがベストであり、瞬間的な『スッキリ』の為に選択を誤ることは惜しいことだ。

上司と自分では見ている景色と自分が見ている景色は違う。そして相手の目的と自分の目的は違うことも少なからずある。

建前上の短期目標は「仕事の遂行」で一致していたとしても、上司の本来の目的は「自分の評価が上がること」であることも往々としてある。これまで私はそういう上司の本音に気づきながら、「しょうもない」と思い、それをないがしろにした言動をとってきた気がする。

プライドであれ他人からの評価であれ、自分が大事にしているものぞんざいに扱う人に敵意を向けることは、動物の反応として当然だと思う。

人も人間である前に動物。相手が「大事にしているもの」を理解し、自分も相手が大事にしているもの脅かさないことを示す。それが人間関係の土台だと思う。それは初対面の犬を触る時に手を出す前にまずは匂いを嗅いでもらうことに近い。

70代も半ばに差し掛かってもしょっちゅう喧嘩している母を見ながら、そんなことを思う。

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