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一九四六年 日本 - 終戦直後の日本から見た台湾

おじは戦前屏東に住んでいた

若い頃のおじ(叔父)は台湾の小さな町で商売をしていたと聞いています。その町は、駅前に大きなホテルがあって、そしてとにかくコーヒーがまずいところだったと言っていました。あと、蕃人はずる賢い、そして台湾人はもっとずる賢いと言っていましたから、おそらく商売はうまくいかなかったんでしょうね(笑い)。最近になって、おじの住んでいたところが台湾の屏東だとわかって、そしてあの日記もきれいな活字になって(注:令和元年(二〇一九年)に翻刻した『昭和丙子台湾屏東之旅』)、とにかく長いこと生きているといろんなことがわかってくるのですが、あの時おじが何を考えていたのか少しはわかってきたような気がします。けれども当時は、おじがあんなに文章が達者で、皮肉屋だったとはまったく知りませんでしたが。

昭和二十一年 田辺市文里港

おじから聞いた台湾の話はあまりありません。(昭和十五年に)お世話になっていた方が亡くなったので内地に帰ってきたと聞いています。私の小さい頃、昭和二十一年に文里港(注:田辺市にある港。日本人引揚港に指定されていた)に基隆から引揚船がやってきたとき、「もしかすると自分もこの船に乗って帰ってきていたかもしれない」と話していたことを記憶しています。おじは、台湾は目下蒋介石さんが治めているから「仁政」が行われていると思っていたそうですが、実際はそういうことではなく、日本人も台湾人もみんな貯金も家財も国府(国民政府)に取り上げられて、そして台湾ではとてもおそろしいことが起こったという話をあとになって聞きました。戦争が終わってから「真実はこうだ!」といわれるようなものでしょうね。でも、私にとってそれよりも印象的だったのは、この歳の暮れに起こった南海地震です。田辺の町がぼろくそに揺れて瓦がずれ落ちたのを覚えています。そういえばおじは、台湾も地震が多いと言っていました。

南方熊楠はお菓子で子供を釣る変な爺さんだった

あと、これは私の記憶ではなく、亡くなった姉から聞いた話ですが、おじは日本に帰ってからしばらく田辺にいて、亡くなる前の熊楠さん(※南方熊楠のこと)に会ったことがあるそうです。熊楠さんは天皇陛下に進講された偉い先生ですが、周りの人は全員変人扱い、熊楠さんは牛みたいに胃が四つあって、なんでも反芻できるといっていました。父は、熊楠さんとおじは気が合うんじゃないかと言っていましたが、おじに言わせると、甘いもので子供を釣る変な爺さんだったそうです。今なら通報されていますね。

男前

おじは色白で恰幅のいい男前なおじさんで、よく笑っていました。和歌山市で商売をしていました。どんな商売をしていたのかはわからないのですが、とにかく儲かっていたようで、田辺に来るときの私たちへのお土産は必ず珍しいお菓子でした。おじは昭和三十年に亡くなったので、私の記憶はだいたい昭和二十一、二年くらいからですが、いろいろ珍しい話をしてくれるおじさんでした。でも、しっかりしていたところもあって、姉は中学を卒業して就職しようとしていたとき、おじに和歌山で就職したい、世話して欲しいとねだったのですが、おじは「まずは勉強して手に職をつけろ」と高校進学を勧めていました。当時は高校受験に英語が入るとか入らないとかで高校と組合がもめていた時代でした。(私の)父なんかは「早く嫁に行けばいいんだ」などと言っていましたが、あの日記を読んでいると、「女の人生」を理解していたから、進学を勧めていたのかもしれないと思いました。

優雅な和歌山生活

おじは一生独身だったと聞いています。夏休みのときに、私たちはきょうだいで和歌山市T町にあるおじの家に泊まりに行ったことがあります。最初は御坊の水害(注:昭和二十八年の七一八水害)で取りやめになって、結局翌年(つまり昭和二十九年)に繰延べになりました。汽車は東和歌山(注:現在の和歌山駅)で下りました。おじの家は割と広く、通いの女中さんと、あと書生さんが一人ずついて、書生さんは和大(和歌山大学)の学生さんと聞いています。客間には小洒落た絨毯が敷かれていて、蓄音機からクラシックが流れていました。壁に外国のお面が飾られていたのですが、台湾のものと言っていました。生活感はあまりありませんでした。

癌と春画

このあとおじは癌にかかって、昭和三十年の正月に亡くなりましたが、とにかく癌になんてかかるものではないですね。体じゅうが腐ってくると言っていました。おじは家族がいませんでしたので、松も開けないうちに、父が喪主になって簡単な葬式をしました。遺品を整理しに和歌山に行ったとき、家のなかはほとんど綺麗に整理されていて、こまごまとしたものは女中さんが、本は書生さんが貰い受ける約束をしていたそうです。家にはたくさんの本があったのですが、でもすっかりなくなっていましたから、すでに引き取られたあとだったのだと思います。残っている本も少しだけありましたが、父から「子供は見るものではない」と叱られましたので、エロ本や春画の類いではないかと思っています。でもそれなら書生さんがもらっていってもおかしくないですが。伊勢神宮で撮った集合写真が一枚ありました。

「めんどり亭」も「銀ちろ」もない時代

おじは食にうるさい方でしたが、戦後すぐは食べ物のない時代でしたが、いろんなものを買ってきては私たちにくれました。そして、私の前ではなんでも旨いと言って食べていました。さつまいもを食べるときも「端っこのここが旨い」とか、どこがどうおいしいかを学校の先生のようにことこまかに説明していましたから、今生きていたらグルメライターになっていたかもしれません。格式ばった料亭よりもビフカツのほうが好きだと言っていました。当時は「めんどり亭」も「中村」も「桃太郎」も、そして「銀ちろ」もない時代でしたから、おじがもう少し長生きしていたら、いろんなところに連れてってくれて、ここのデミグラスソースはこうこううまいとか、あそこのサラダのドレッシングはうんぬんだと言っていたかもしれません。

屏東の瑞竹

私がもう少し若い頃に知ることができたら屏東も歩いてみたいと思ったかもしれません。でも少し前まで台湾は女子供の行くところではないと言われ続けていましたので、結局行けずじまいでした。屏東は一度は見てみたいけれども、もう年だし、コロナのこともあるから、無理かもしれないけれども、GoogleとiPadでもあらかた見ることができるようになったので、それはそれでいいのかもしれません。それから日記に瑞竹の話は書かれていませんでした。おじは軍隊も昭和天皇も「戦犯」だと言っていましたから、こういううそめいた話は全然信じていなかったということですね。(終)

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