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昭和10年代の台湾-台北の女装街娼と喜多川諦道(ジャニー喜多川の父)

船上から最後の台湾をつらつら眺めていると基隆山丘に壮麗な摩天楼があることを初めて知る。船を待つ為に基隆で二日も待ったが、こんなことなら礁渓にあと一泊すべきであったと思ったり、最近萬華界隈では男女(おとこおんな)の娼妓も居ると云うから一度冷やかしてみるべきだったと思ったりしたが、よくよく考えてみると台北には殆ど行ったことがなく、新聞や噂話以上のことは能く判らない。
いつの間にか台湾島は小粒になり見えなくなっていた。まさに一炊の夢の如し。それにしても自分はこの後大阪でO君・K君・喜多川君らと会ってこの顛末を話さなければならぬ。喜多川は僻地から高野山に出家しその後ツテを頼ってアメリカに渡りその地で出世したが、和歌山に居る頃から読経よりも婦女や小供と戯れることが好きで高僧など務まる訳はないと思っていたが、結局悪癖の末にアメリカを追い出され現在は大阪に居ると云うのだから、因果と云うべきだろうが、お互いの人生を笑い飛ばし合うのも面白いかも知らん。

(『昭和庚寅(1940)台湾後山之旅』より)

この文章は1940年9月、筆者が基隆から台湾を去る際に書いた記録です。基隆で二泊したそうですが、台北には行かなかったようです。基隆から台北までは汽車で一時間なので、どうせならちょっと立ち寄ってもよかったのでしょうが、日本に帰らなければならない気鬱も手伝って、その気分にはなれなかったようです。

おとこおんなの街娼

台北駅の西側に「萬華」という地区があります。「ばんか」とよむ人もいれば、「まんが」「もんが」とよむ人もいるのですが、この地区は日本統治時代から繁華街として知られたところで、大阪の宗右衛門町や東京の歌舞伎町をイメージすればわかりやすいかもしれません。記録によると、ここにいたのは「男女の街娼」。「だんじょ」ではなく「おとこおんな」、つまり女装男娼のことと思われます。

筆者はこの手の話題が大好きで、別の記録にはこのようなことが書かれていました。

中には軍人を手玉に取る悪辣な不良少年もいて、巻き上げた小遣い銭を貯め内地に渡航した者も居ると云う。事業や学業に成功した者も居るが、中には大阪釜ヶ崎界隈で男娼置屋にヤツする者も居て、また彼の姉は飛田に居ると云うのだから、「姉は吉原弟は芳町、同じ勤めの裏表」と同じく真遺憾に堪えざるものである。

(『昭和丙子(1936)台湾屏東之旅』より)

この筆者は関西和歌山出身ということもあって、大阪の釜ヶ崎に男娼置屋があったことを知っていました。今では釜ヶ崎というと日雇い労働者の街というイメージがありますが、この界隈は、終戦後には上田笑子氏の「男娼道場」の舞台として、そして高度経済成長時代には「竹の家(たけのや・バンブーハウス)」という発展場(不特定の同性愛者がセックスをするところ)があったところとして、その筋の人には比較的よく知られています。
当時の釜ヶ崎の女装男娼の事情については多くの方がすでにくわしい研究を行っておりますのでここでは省略しますが、古今東西の別なく、性にかかわることは不易なんだなと思わせます。

喜多川諦道

また、筆者の友人として「喜多川」という人物が出てきます(イニシャルにしましたが、この方だけは姓を表記しました)。喜多川とは高野山の僧侶・喜多川諦道(きたがわ たいどう)氏(1896-1960?)のことで、「ジャニー喜多川の父親」といったほうがわかりやすいかもしれません。

喜多川諦道氏(インターネットで出回っている画像より)

喜多川諦道氏は大分県出身。若くして寺の稚児となり、多くの高僧からかわいがられ、その後高野山米国別院の代表(主監)となりました。
筆者とはどこでどのように知り合ったのかはまったくわからないのですが、「和歌山に居る頃から読経よりも婦女や小供と戯れることが好きで」と、みもふたもない書きようからして、この二人はさしずめ悪所通いの友達だったのかもしれません。なお、この記録だけでは喜多川諦道氏は男子が好きだったかどうかまではわかりません。

なお、喜多川諦道氏の墓所は高野山の奥の院にあり、子・ジャニー喜多川氏とともに葬られています。

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