ハイパー・メリトクラシーの話

以前大学のジェンダーの授業で「女子力」を取り扱った回があった。その中で教授が言及していたことで興味深かったのは「女子力」は「日本社会全体がハイパー・メリトクラシー化しつつある影響の現れ」という考察だった。

この考察はなるほどと思ったのだが、この時の私は「女子力」よりもその言葉が流行した背景にある「ハイパー・メリトクラシー」という単語の方に注意を惹かれたのだ。


私はこの講義を受講した時に初めて「ハイパー・メリトクラシー」なる言葉を知ったのだが、実際にグーグルで調べてみるとこのような意味だった。


ハイパー・メリトクラシー (Hypermeritocracy) とは、教育学者の本田由紀による造語で、あえて日本語に訳すと「超業績主義」を意味する。日本の近代社会が学歴をはじめとする手続き的で客観性の高い能力が求められてきたという意味でメリトクラシー的であったのに対して、今日では、コミュニケーション能力をはじめとして独創性・問題解決力といったより本質的で情動に根ざした能力が求められるポスト近代社会に移行しつつあるとして、そのような社会をハイパー・メリトクラシーと呼んでいる。(wikipediaより全文引用。出典:『多元化する「能力」と日本社会―ハイパー・メリトクラシー化のなかで』 NTT出版、2005年


どうやら比較的新しい造語のようで、言葉の定義を記したようなサイトがwikipediaやweblioしか見つけられなかった。

上記に色々と書いてあるが、要約すれば「学歴や実績などの肩書きではなく、人間性に蓄えられている能力を志向する社会」という事らしい。

元々「メリトクラシー」という「能力・実績主義」を表す単語に「ハイパー」が組み合わさったことで「超能力主義」という意味合いで用いられるようである。


私個人の体感に限るかもしれないが、ここ最近、上「○○力」や「○○スキル」という可視化されにくい抽象的な能力を宣伝文句にしているビジネス本やオンラインサロンの需要の高まりを見せているように感じる。

この現象は正にこの「ハイパー・メリトクラシー」の高まりを表現しているようだ。


「能力主義」そのものは既存の「身分制」とは違い、誰もが自分の価値を高め、社会でのし上がれるチャンスを平等に持つことができるような理想的なシステムのように思える。


しかし、この「ハイパー・メリトクラシー」の問題点は「学歴や実績」とは違い「可視化されにくい」という点にある。

いわゆる「コミュ力」や「問題解決力」などがそれにあたるだろう。これらは就活やキャリアを向上させる上で必須とされるようなスキルと言われているが、実際その程度の判断は曖昧でハッキリしていない。

さらに言えば、判断基準が個人によって「バラバラ」なため、就活においては面接官との相性で決まってしまったり、「何となく」「どことなく」という曖昧な判断でその人間の価値が左右されてしまう可能性がある。

また合格や不合格という結果が出ても、「何がダメだったのか」「何が正解だったのか」という振り返りも困難になるため、改善にも繋がりにくい。それでありながら、世間的には「能力が足りない」「自己責任だ」との烙印を押されてしまい、当事者が精神的に追い詰められてしまうのではという指摘もある。


少し極端な指摘のようにも思えるが、我々は日常生活の中でそのような曖昧な基準で人間性を判断してしまっている節があるのではないだろうか


何をもって「独創的」というのか。

何をもって「コミュ力がある」というのか。


安易に「○○力」という言葉で他人を判断することは避けるべきだろう。




だから、就活する際にはコミュ力を求めるのはやめてくれ。

と私は声を出して言いたい。


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