超短編小説『ブランコとアイツ』
蛾が纏わりつく一本の電灯の下で塗装のはがれたブランコを漕ぐ。
日中に遊びまわっていた子供たちに置いていかれたブランコは、今は俺専用の私有物となっていた。
ブランコを前に揺らす。後ろに揺らす。
傍から見れば、まるで漫画か映画のワンシーンの再現に浸っているのだろうと感じるだろう。スーツ姿の男性が夜にブランコを漕いでいるなんて、なんとも典型的な光景だ。
足をピンと伸ばしてみる。黒の革靴とスラックスは夜の闇と違和感なく調和する。
ブランコを前に漕ぐ。後ろに漕ぐ。
軽く揺らすだけだった振り子運動が、徐々に大きくなっていく。俺はその運動にただついていくだけになる。
ブランコが描く放物線が段々とその端を伸ばしていく。座り始めた時は冷えきっていたブランコの板が、徐々に自分の体温で体に馴染んでくるのが分かる。
いつの間にか日が暮れるのが早くなって、いつの間にか季節が変わっていく。コントロールできていたはずのものが気が付けば自分の手を離れていってしまう。
そんな当たり前のことを考えて、そんな当たり前に震えた日々が今だった。俺はふとこんな日々とは無縁だった頃を思い出す。
『飛んでみなよ、大丈夫だからさ』
あの時。俺だけがブランコから飛ぶことができなかったあの時。
アイツがそう言ってくれた。名前も顔も知らないアイツが臆病な俺にそう言ってくれた。あの時のような恐怖が徐々に心を占めていく。あの時、俺はどんな風に足を着けていたんだっけ。どこに力を入れていたんだっけ。
『俺には無理だよ』
臆病な俺はそう言った。
『大丈夫だ。やばかったら俺が支えてやるからさ』
人の気も知らないで。適当なことを。
あの時、俺はそう心の中で呟いたのを覚えている。
その言葉を真に受けた俺が失敗するのを期待してるんだって、そう思っていた。
周りの奴らは、未だに飛べずにいる俺をニヤニヤと笑いながら見つめている。俺のブランコは長い振り子運動を続け、尻のあたりに汗をかいているのが嫌でもわかった。
アイツの真意なんて分からなかった。
でもあの時、俺を笑わなかったのもアイツだけだった。
俺はあの時のようにブランコの板から腰を離す。
あの時のように俺を受け止めようとする人間はいない。
だけど着地に失敗して尻もちをついたとしても、足を捻ってしまっても。それでもいいと思えた。
俺は一瞬だけ宙に浮く。そしてすぐさま重力が俺を引き戻しにやってきて、あの時よりも大きくなった身体はすぐに地面へと引き寄せられていく。
そうして、俺の足はあっけなく地面に着地する。
『飛べたじゃん』
あの時、みんなの中で唯一そう言ってくれたアイツは。
あの時、失敗しそうになった俺を受け止めてくれたアイツは。
一体どんな奴だったっけ。
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