#02-「ポピュリズム」アレルギー
現代のヨーロッパ民主主義はポピュリズムアレルギー?
英紙「エコノミスト」は都知事選に立候補した石丸氏を
と紹介している。たしかに石丸氏は大衆迎合的な側面があるが、政策は左派的な根拠のないバラマキではなく、政策ベースで選挙を戦ったと言えるのではないだろうか。
ポピュリズムという言葉に関してプロである日本経済新聞は、ポピュリズムを以下のように定義している。
この定義に基づいて今の政治批判を顧みたとき、大衆迎合を第一に掲げる政党以外でも、「ポピュリズム」の枠で捉えられていることはよくあると感じる。そしてその傾向は、日本と比べてヨーロッパにおいてより顕著だと感じる。例えば、現在の日本で石丸氏をポピュリズムだと言う人は多くないように感じるが、イギリス紙によれば立派なポピュリストらしい。
そこで今日は、ヨーロッパの民主主義がポピュリズムアレルギーに陥っているという仮説の下、ポピュリズムを考察する。
衝撃的だったナチスの経験
私は、現在の「ポピュリズム警戒態勢」の引き金として、ナチスドイツという歴史が深く関わっていると思う。
民主主義という、絶対王政への血の滲むような革命と抵抗から得たシステムのもとで、ナチ党が猛威を振るったことは、ヨーロッパの屈辱であり痛恨であったと思う。
そして、民主主義から始まった巨悪を止められなかった痛恨は、ある種のトラウマのようにヨーロッパ知識人の中に残り続けているのではないか。
ポピュリズムは必ずしも悪ではない
しかし、果たしてポピュリズムは必ずしも悪だろうか。私はポピュリズムと呼ばれる主張は2つに分けられると思う。ひとつは人を騙すことを目的としたポピュリズムであり、もうひとつは人に事実を伝えるポピュリズムだ。
人を騙すポピュリズムとは、具体的には「実現しない政策を、実現しないことがわかっていながら、実現可能かのように鼓吹すること」を指す。例えば、税金を8割廃止するなんてのは、これにあたる。もっとも、税金8割なんてふざけたこの例が、少し数字を変えれば実在する悪質なポピュリズムに変身するのであるが。
さtr、もう一つの、人に真実を伝えるポピュリズムはどうだろうか。私はこれは利益のあるポピュリズムだと思う。民主主義において、政治の利権化は500%起こる。それを民衆が変えるためには、「利権に汚れていない人」に権利を渡す必要がある。しかし、その人をポピュリストと言って仕舞えば、利権政治は永遠に続く。もしも利権に塗れていない人が真実を語っているのであれば、政治改革の正当な手段としての大衆の利用だと言えるだろう。
その人が大衆を煽動しているのか、合理的に利用しているのか、極めて引くのが難しい線である。
ポピュリズムが「悪」になるとき
しかしながら、ポピュリズムは、政権が他の党を解散させられるようになった時、恐ろしいファシズムになる。ナチスドイツでいえば、全権委任法の成立とワイマール憲法の停止が決定的だったというのが私の考えだ。政治においてポピュリズムを一概に否定しないにしても、そういった独裁的な勢力の誕生を防ぐ憲法の制定は必ず必要である。
これに基づいて言えば、ヨーロッパは、現在過剰なポピュリズム警戒モードにあるが、自分たちのシステムの持つ憲法の有効性に自信を持って、ポピュリズム的な政党の台頭を許す姿勢こそが真の民主主義なのではないか。
日本のポピュリズムとの向き合い方
では日本はポピュリズムとどのように向き合うべきか。
まず、欧米の過度なポピュリズムアレルギーは悲劇の歴史を踏まえた感情論の側面があるのではないか。それを理解し、自分たちも同じ基準で見る必要はないことを覚えておきたい。
そして、もし日本を後退させている利権があるのならば、それを崩壊させる一つの手段としてポピュリズムは良薬になるかもしれないということだ。良薬は口に苦し、というように、そこには保守派と改革派にとどまらない内部的なものも含めた分断が起きるかもしれない。しかしながら、実はその分断こそ過剰な警戒モードの結果かも知れず、手段としての可能性を捨てないことは大切だ。
ただし、もしもポピュリズムを導入するのであれば、ポピュリズムの暴走を意地でも止められる憲法の制定が欠かせない。そしてそれは今存在しなければならない。
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