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東京女のカープ熱狂録 その3 -回想2014年2月。沖縄キャンプに跳ねた鯉-

2014年春。広島東洋カープの沖縄キャンプが引き上げとなった午後。わたしと家族は、選手と同じ宿舎に投宿していた。優勝の栄冠を掲げる2016年の秋となった今では、同じ宿舎に泊まることなど、本当にラッキーなファンにしか許されないのではないだろうか。しかし少なくとも2014年の春までは、それが「できてしまった」。そんな近くて遠そうに思える、過去の話を書いていく。

「いってらっしゃい、一年間がんばってください」。息子は小さな声をはりあげた。空港へと向かうバスの窓には、息子に手を振ってくださるスターもいた。発進した。ホテルの車寄せにぽつんと身を寄せたわたしたち家族は、バスの吐き出す揺れた風をからだにまとい、深々とお辞儀をするホテルマンたちの横で、震えながら見送った。急峻すぎる坂道を降りていくバスだから、視界から消えていくのもあっけないものだった。

ユニフォームを畳み、大野やマツダに送る大きなボストンを積み上げて、移動用のスマートな背広に着替えた選手たちが、ロビーの仕切りチェーンの向こうに立つわたしたちの前をぞくぞくと通過していった。

そのときわたしの隣にいたのは小学一年生の息子だった。声を張り上げながら、一生懸命覚えた選手の名前とともに、ねぎらいの言葉を叫んでいた。えんえん止まないそんな様子を見留めた優しい関係者のお一人が、笑顔ですうっと、息子の手を引き、チェーンの内側に通してくださった。

雲の上を歩くようだった。

ロビーから車寄せまで、選手たちの横をこっそりと進んだ。ガラス戸の向こうでエンジンをかけたバスに、選手たちがどんどん吸い込まれていく。

目の前を、激しい春季キャンプにて熱闘し、しのぎを削った鯉たちが通過していく。わたしたちは緊張しながら、胸の底を熱くしながら、彼らの先行きを思った。一軍キャンプを終えて、二軍が決定する選手がそこには必ず存在する。けれども、わたしたちには等しく、努力のかたまりなのだと美しく思えていた。

プロ野球チームにとってのキャンプというと、温暖な地域でゆったり慰労、と思いこんでいた過去がよぎった。心の底から失礼な話なのだが、わたしは昔、こんなふうに思っていた。芸能人のハワイ年越しのようなものだと。

実際は、まったく違う。一軍ホルダーの権利を賭けた生き残り戦であり、各自に渡されたメニューをこなす自己鍛錬であり、隙のない共同生活による意識の高揚だった。

特にカープの場合は鬼のようなシゴキが他球団ファンからも有名で、デスマッチの様相も帯びていた。休暇日ともなればのんびりした写真などがブログやインスタグラムといった形で、選手から発信されるもの。しかし、それらは「つかの間の休暇だからこそ」の、男の見栄のようなものだと思い知らされた。

同じ宿舎だから、知ってしまったことがある。

夜。練習が終わり部屋に戻った後になっても、バットを肩に乗せ、素振りのために外出していく選手が何人もいたことを。

宿舎と「コザしんきんスタジアム」の間をむすぶ、長くてつらい坂道を、あえて迎えのバスを断って、走り込んだ選手たちがいたことを。

もちろん中にはキャンプらしい洗礼もあった。

遅刻した選手はバツとしてバスから追い出されていたし、理由はわからないものの何かのエラーをしたのだろう、まだ若鯉そのものだった鈴木誠也選手が、顔に大きな極太つながり眉毛を書き込まれたまま、バッティング練習にうちこむ様子も見た。

宿舎のエレベーターは選手とほかの宿泊者も共同だったから、運が良ければ選手と同じ狭い空間を息を詰めて過ごした。

これから列挙するお名前は、自慢のために書くのではない、と少しだけ弱気に打ち明けておく。「これほどの距離感で、ファンと選手が近接することのできた時期があった」という記録だと思っていただけたら幸いなのだ。

覚えているのは、木村昇吾選手石原慶幸選手安部友裕選手などとの乗り合わせ。別のもっと昔に宿舎へ泊まったときは、わたしの胸をざわつかせていた大竹寛投手に、狭いところで公式麦わら帽子にサインをいただいたことも少しドラマだ。今でも帽子は我が家の玄関に飾られている。移籍の時には葛藤したものだけど、その後は巨人戦のときなど被ることで、逆にげんを担いだりもしたものだ。

ご覧の通り、息子は球団公認ユニつなぎを着用して過ごした。肩口には、大好きな丸佳浩選手のサイン。宝物のキャップにも、数限りない選手のサイン。すべて、小さな息子が勇気を出して、大きな背中の選手たちにもらったペンの跡だ。7歳の男子にとって、それはとても背伸びなことで、キラキラで、頑張ったことだと親として思う。

NG集的な話もすると、幼い息子には外国人選手の見分けがつかず、ミコライオ投手やバリントン投手に二度もサインをもらってしまった大失態が挙げられる。大変に失礼なことなので、こころから気をつけたい。ちなみにエルドレッド選手を間違えることは一切なかった。何故か、と問うと「当たり前じゃん!」と憤慨していたので、どうやらそうしたものらしい。

自分の話をするならば、この期間を通じてわたしは敬愛する廣瀬純選手のサインを頂戴した。震えながら、お声をかけて。

目の前でサインペンを取り落としたのもそのせいだ。みっともなく謝罪しながら、彼を見上げた。厚い胸を包みこむタイトな背広。黒く日に焼きあげた首筋。ぐんと天に伸びる高い背筋。黒縁眼鏡を粋にかけこなした廣瀬選手が、ホテルのロビーでわたしのとりこぼしたペンを今一度握り直し、赤いユニフォームに墨を入れてくださった。わなわなしながら、それは最高の瞬間だった。

思い出について、書き直しているいま。2016年も10月を迎えた。浮沈を繰り返したチームは悲願の優勝を果たしたし、広島というローカルのみならず全国が驚きとドラマに沸いている。

だから、もう。2014年の春やそれ以前にわたしたちが経験したことは、おとぎ話のように聞こえるだろう。キャンプを観に行くファンも激増し、サインをもらうためには徹底されたルールが敷かれるようになった。選手たちとの距離も、あらかじめ厳しく計られていることだろう。これらは、球団として実情を知れば、当然の管理だとも思えている。

あれは何年前の沖縄キャンプだっただろうか。空ばかりの広がる、まだ改築前でおんぼろな石造りのスタジアムと練習場をつなぐ道ばたで、栗原健太選手とスナップを撮ってもらったことがあった。栗原選手は当時「主砲」だったから、通うファンたちがすぐにわっと取り囲んだ。

手を振り、立ち去る選手も多いなか(それも当然だ。練習時間中であり、おのれのメニューに集中すべきなのだから)、栗原選手は道の端っこに移動して、ファンの全員が満足するまでサインを書き、写真に入り、握手をして、言葉を交わしてくださった。その姿を見て、次第にファンたちは自発的に列を作った。隣同士でカメラを預かりあい、撮りあった。この光景が、カープだった。

CS、日本シリーズを終えたあとのシーズンに想いを馳せる。こちら沖縄や、同じくキャンプ地となる宮崎県・日南の光景は、はたして昨季までとどれだけ違ったものになるのだろうか。ファンの動向にはビビッドな視線が集まるのも自然だと思う、だからこそ。

わたしたちファンは、チームの勢いと実情に応じて、謙虚にそしておのれのドラマを抱えながら、キャンプを見守っていければ良いのだと思う。

あのときは、本当にお世話になった。
選手各位のみならず、宿舎の方々、地域のボランティアの方々の熱い姿勢について、息子が少年野球をはじめる年頃になった今こそ、あらためて話し、伝えていきたいと思っている。

この長い回想録は、実は息子のための筆だ。
あの時に丸選手から肩口にもらったサインをいまでもなぞるその指先で、今度はバットを握り、グローブを手入れしていて欲しいと親として思う。これからも経験をしていこう。家族も、野球も。

こうしたとき、必ず思い出されることばがある。

共に戦おう。

マツダスタジアムのバックスクリーンに毎年、毎試合、真っ赤な背景のなか大写しとなる檄文だ。

わたしたちは戦い続ける。それは、あらゆるときもずっと、共に。広島東洋を愛するすべての人たちと、共の気持ちを持ち続けていたいと思う。

戦うことの意味を知る、すべてのファンの人たちと、共に。

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