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『ジョーカー』2回目


1回目の鑑賞は夢中で観た。
2回目の鑑賞はゾッとした。


赤い足跡はあっちの世界の住人にしか付けられない。

でも誰にでも付けられるファクターはある。

決してジョーカーは1人じゃないと言う恐ろしさがスクリーンに浮かんだ。

 ・・・・・だから作り出してはイケナイ。


最初のバス内の窓に寄りかかる顔と終盤パトカーの窓に寄りかかる顔の対比がオモシロイ。

彼の発作の様な笑いは不遇な幼少期の産物。
笑う事でツライ全ての事象を紛らわせてきたのだろう。

笑う事が辛そうで辛そうで・・・
笑っているのに目が苦しんでいる。
そんな事って・・・・こっちも辛くなる。

ホアキンがこの役に迷って迷って或る時自分の演技が違うと気付いて撮り直したと言うエピソードを読んだ。

いや、正直あの演技は通常の精神状態では無理だと思う。
ヒースがまさしくそうであった様に、ホアキンもまたこのジョーカーの狂気の【何か】に気付いたのかもしれない。

一度そちらに踏み込んだら戻れないかもしれない世界。

だからそうならない様に人間は理性を持ち、モラルに生きる筈なのだ。

だがそれを逸脱した人間がその逸脱を超える怪物を作ってしまうと言う縮図がこの作品に見える。

自分を【苦しみの笑い】から解き放つアーサーが真に心から笑うシーンは背筋が寒くなった。

が、同時に美しいと感じてしまう。

それがこの作品が【否】と言われる所以なのだが、そう感じてしまうのだから仕方がない。

もしかしたら根っこの部分は自分も赤い足跡を付けられる要素が多分に備わっているのかもしれないな。

ただ、裕福ではないが貧困でもなく抑圧される事も無い状況を作って来たからアーサーの様にはならない。

でも、格差社会は現在の自国にも感じられるところでは多々ある。
もう古き良き平均生活水準が高く安全な日本など何処へやらだ。


だからこの作品は肝に銘じろと言っている様に感じる。

何も失う物の無い者の狂気を、怖さを。

そして執着を。


その執着が後のブルース・ウェインとの対決に繋がると思うとあの終盤の描き方はやはり蝙蝠シリーズを想起させるね。

『ダークナイト』のBLとも思えるブルースへの片思いはそういう事か・・・と納得も出来なくないからね。

まっ、ブルースとジョーカーの歳の差に疑問を抱いたのはアタシだけじゃないと思うけど冒頭で書いた様にジョーカーは1人じゃないのかもしれないから精神伝授みたいな事も想定に入れて考えてみよう。


でもしかし、ヒースちょっとだけ降りて来て乗り移ってたでしょ?ホアキンにさ。
えっ?どうなの?ヒースさん!!ww

この映画から抜けきれない・・・
かなりヤバい!




🔹完全なる余談🔹

もしホットトイズからホアキンジョーカーのフィギュアが出たら絶対買っちまう気がする。
で、ヒースジョーカーの真ん中に挿し込んで囲ませる!

ウチにはあと2体居るんだけどね。


きっと、ホアキンジョーカーは赤いスーツだからめちゃバランスいい気がする。


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