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『キングダム』から気づいた死生観の矛盾

※ワードプレスからの引っ越し記事ですので、時節は合っていないかも知れません。。。

みなさん、こんにちは!

タカミチです。

今日は仕事が休みだったので、娘を学校に送り出した後に妻とNetflixで『キングダム』を観ていました。

そこでふと「現代人のほとんどが死後の世界を知らないことは、ある意味美徳かも知れない」と感じました。

人生を安心して幸せに送るためには、死生観を育むことは不可欠だと感じます。

「死んだ後に、生前の行いに応じて行き先が決まるのだから、”今”を大切に生きよう」

この価値観への認識具合が深ければ深い程、周囲の人への思いやりが増し、感謝に包まれて安心して生活が送れるようになるのです。

「死んだ後がある」と知っていると、死に対する恐怖が和らぎ、「死ぬこともまた新たな旅の始まり」だと認識できるようになります。

でも、誰もかれもが「死んだ後がある」ことを知って、死に対して潔さが芽生えてしまうと、現代のドラマ作品の多くは感動が薄れてしまうのでは?と『キングダム』を観ていて感じたのです。

大切な仲間が敵に討ち取られて死んでしまった際に、「死んだ後が普通にある」という価値感を誰もが共有している世界だった場合、素直に大号泣して悲しめるのか、ということです。

「死んだ後に天に還る」という認識は描かれていますが、それはあくまで観念的なものであって、「彼は新たに霊界での人生の旅が始まりました」という認識は無いわけです。

その認識を少しでも挟もうものなら、彼が死んだことに対する悲哀が減少し感動が薄れてしまいます。

その前提で生まれる物語は、まったく違うものになってしまうでしょう。

そう考えると、当たり前に霊界を描いていた『ドラゴンボール』や『幽遊白書』などは、良い意味で人の死がライトな印象がありました。

かめはめ波や霊丸などはおいといて、生死においてはむしろ現実的な様相を描いた作品だったと言えます。

「死んだ後の世界を実感しない世の中」だからこそ、人の死を描くドラマが感動を生んでいる側面はあるなぁ、と感じました。

死んだ後の世界を認識することは大切、されど、その認識をほとんど持たない現代人だからこそ生み出せるドラマがあり、それは美徳なのかもしれない、と思った次第です😅

そう自問をしていると、「あぁ、あの世の記憶をリセットしてこの世に生まれるのだから、この美徳こそが神様の恩寵なのか」と気づきました。

神様が人間に求めていることの一つは、この現実界において死の先を思い出し、魂本来の自分に回帰することです。

でも、その一方でほとんどの人が死ぬまで死の先を知らずに死んでいく、、だからこそ感動のドラマもあるという矛盾。

人の死を悼み、残された者が悲しみを背負いながらも前を向くという人間賛歌は、人類において最高の感情のひとつです。

この感情は真理からすれば真ではなく偽なのかもしれませんが、”偽”は必ずしも悪いものではないという分かりやすい指標のひとつになるのかも知れません。

つまり、真偽、善悪の区別は最初から存在しないという、神様の視点を考えるのにひとつのアプローチになる可能性があると感じます。

すべての物事には陰陽があり、矛盾を抱えた二律背反として存在しますが、おそらく大多数の人が「死の先が普通にある」という事実に気づく世界になった時、この現実界は新たなステージに進むのでしょう。

と、取り留めもない想像を膨らませてみましたが、まとまりが無くなってきたのでこの辺で終わろうと思います笑

みなさんの心に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。

お読みいただき、ありがとうございます😄

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