豆腐のような男になりたい、そう思った
※今回の記事は、荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)という日本の俳人が書いた『豆腐』という作品に感化された著者が書いています。作品の引用や転載がありますのでご了承ください。
秋の夜長を感じる季節になった。
「秋の夜長」というものが、具体的にどういった意味を持つのかよくわかっていないけれど、すこし肌寒く、そしてどことなく心地の良い空気が流れるこの時期に、無性に使いたくなる言葉だ。
秋の夜長……。
ぽつりと呟いてみるだけで、自分がまるで、季節を大切にしている人間のように思える。
芸術でも楽しんでみるかと思えるし、久しぶりに体を動かしてみるか、とスポーツに想いを馳せる。埃をかぶった本を引っ張り出して、文学の世界へ身を投じてみるのも良いだろう。
そしてなにより、食欲の秋だ。飯を食わねばなるまい。美味い飯を。
茸が街を出歩けば、豆腐汁が美味しくなる。
芋が肥えてくれば、焼豆腐が思い出される。
魚が獲れれば、煮込み豆腐が恋しくなる。
***
突然の豆腐推しに驚かれた読者も少なくないかと思う。しかし、これには理由がある。
日本の俳人・萩原井泉水が残した『豆腐』という作品を読んだのだ。この作品を簡単に説明すると、萩原井泉水が禅の達人を豆腐に例えた文章のことである。
読んでみると、なかなか興味深いことが書かれていた。
今回は、この『豆腐』という作品を紹介していきたい。
まず冒頭には、豆腐はその形のわりに、なかなか優れたやつであるということが述べられている。
豆腐ほど好(よ)く出来た漢はあるまい。彼は打見たところ、四角四面のぶっちょうづらをしているけれども、決してカンカンあたまの木念人(ぼくねんじん)ではない。
そして文章は以下のようにつづく。
軟らかさの点では申し分がない。しかも、身を崩さぬだけのしまりはもっている。煮ても焼いても食えぬ奴という言葉とは反対に、煮てもよろしく、焼いてもよろしく、汁にしても、あんにかけても、又は沸きぎたる油で揚げても、寒天の空に凍らしても、それぞれの味を出すのだから面白い。
豆腐という食材は、そのやわらかさが特徴的だけれども、そのやわらかさに溺れることなく、自らを引き締める強い意思を持っている。
そして、どんな調理の中においても、その身を溶け込ませることができる、非常に優れた存在…であるらしい。
豆腐ほど相手を嫌わぬ者はいない。チリの鍋に入っては鯛と同座して恥じない。スキの鍋に入っては鶏と相交って相合する。ノッペイ汁としては大根や芋と好(よ)き友人であり、更におでんに於(お)いては蒟蒻や竹輪と協調を保つ。
なるほど。
調理法だけでない。どんな食材とだって豆腐は、相性よく、美味しさを演出することができるらしい。たしかに。そう考えるとそんな気もする――。
井泉水は、こ禅の達人としての面影は、これら豆腐の性質にこそあるのだ、と語っている。
***
井泉水は、この『豆腐』という作品の中で「豆腐がすべての料理に順応することができるのは、ひとつのことに異常に執着することなく、無我の境地にたどり着いているからだ。」と言っている。
ほんとかよ……と疑ってしまう。
「豆腐のように、これが自分の居場所なのだと、与えられた場所に従って生き、あるがままの時代にぴったりとハマること、これこそが自然であり、真の自由だ」と豪語する萩原井泉水の言葉に、全面的に共感できない時点で、まだまだ未熟なのだろう。
そんなことを考えながら、ぼくは今、実家へと向かう高速バスの中で揺られている。
「ようし、いつか豆腐のような男になってみせるぞ」
ぼくのやわらかな決意が、ピシッと打ち立てられたところで、グゥッと腹が唸った。
「今晩は、母親に煮込み豆腐をつくってもらおう……日本酒も……」
また、嬉しそうに腹が鳴る。
秋の夜長が、すぐそこまで近づいてきていた。
参照/『豆腐』(萩原井泉水)
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