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日本国の伝統の呪いとは~『桜の散り様を美学とし深層意識下に入れさせ特攻』

8937文字
この松下政経塾の卒塾生さんの2008年9月の歴史観の記事はとても良い問題提起であるんだけど、参考にした文献が半分は嘘情報だから桜が日本古来のものであると出だしからダマされている。でも戦争で軽く命を捨てさせる為に、桜が利用された情報を集めてくれたのは有り難い。

というわけで、間違いを修正しながら紹介する。原文はコチラで確認して下さい。


日本の伝統精神とは~桜と特攻

日本人は桜をこよなく愛している。しかし愛するがゆえに、明治政府のイデオロギー政策の対象として、桜の花のように散りゆくことは大和男子の美徳と教えられ、先の大戦においては特攻の悲劇を生んだ。

はじめに

靖国神社千鳥が淵(皇居の北西側にあるお堀)には30万人が満開の桜を見ようと訪れる。靖国神社がこんなに混むのは、この桜の季節と、あとは終戦記念日くらいしかない。

千鳥が淵(皇居の北西側にあるお堀)
靖国神社:花見の季節
アイコクで特攻マンセー右翼(流石に雇われたサクラかね?)

日本人は、世界中の誰よりも桜を愛してやまない。理由は人それぞれだろうが、透きとおるほどの美しさ、圧倒的な量感に心ときめく、といったものが挙がるだろう。

しかし我々日本人ははもうひとつ、世界中の誰よりも桜を愛してやまない理由を知っている。それは、桜の花が散るときには一斉に花びらが散っていくからである。そしてそのシーンに、時として自分自身を重ね合わせるからである。

これまで多くの日本人が、美しい桜の花の散るさまを自分自身に重ね合わせ、果ては死んでいった。その悲劇のひとつが、先の大戦末期に出撃した若い特攻隊員たちであった。ある特攻隊員は出撃にあたり、次のような辞世の句を残している。


緒方襄中尉
熊本県出身 関西大学卒 海軍第十三期飛行科予備学生
第一神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊
昭和20年3月21日 九州南方洋上にて戦死 23歳

「身は桜花のごとく散らんも悠久に護国の鬼と化さん」

日本政府広報:愛國プロパガンダYou Tubeサイト様から

言いかえれば、桜の花の散るさまを自分自身に重ね合わせることがなければ、死から逃れることができただろうか?彼らを死地から救うことができただろうか?とも考えたくなる。

桜は、人を死へと導く花、すなわち「死花」なのかもしれない。

なぜ若い特攻隊員たちは、桜の散り際にこれほどまでに心惹かれ、自ら進んで死んでいったのであろうか?


古代~江戸時代〜「散る桜」となるまで

では天皇朝廷が、日本人が桜に抱くイメージの面でどのようなプロパガンダ歴を経てきたかについて簡単に追ってみたい。


古代天皇朝廷

桜はもともと、農業における再生や生産、いわゆる「生」のシンボルであった。桜の語源は田の神を意味する神の霊「サ」、の居場所「クラ」(座)と言われている。山の神は稲作を守護するために桜の花びらに宿り、田に下ってきて田の神となる。桜の開花は、農民にとって田植えの合図となり、秋の収穫によって神に感謝したのち、神は山へ帰っていく・・・

・・・などと騙した。

日本の桜は、宋王朝時代(960年 - 1279年)に中国から伝わったもの、稲作の感謝なんたらは桜が古代からの日本人精神だと騙すため。

桜は中国から輸入した時から朝廷貴族文化

平安時代

平安時代になって天皇・朝廷の独自の文化が成立してくる段階を迎えると、最初から「散る桜」が登場している。この時代の代表的歌集である『古今和歌集』から2首紹介したい。

◉「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」
ーー小野小町

(自分の物悲しい思いに浸っている間に、空しくも桜の花の色が褪せてしまった)ーー小野小町

などと、国民は読めないと思い意味不明のポエム文にして騙しているが、

⭕️翻訳「花の色は移りにけり、泣いた面(ズラ)は我が身、世に降る、眺め せる間に」ーー小野小町

「いざ桜われも散りなむひとさかりありなば人に憂き目見えなむ」ーー承均

(散る桜よ、われもまたお前のように散ってしまおう。人間は若さの盛りが過ぎると、見る目に鬱陶しくなるものだ)ーー承均

もちろん嘘で、

⭕️翻訳「いざ桜、我も散り並ぼう、一盛りの花が有れば、人へ憂き目(辛く苦しい体験)が、見えずとも〜」ーー承均

2首とも「散る桜」と人生の無常や死が結びついている。また同時期に書かれた紫式部の『源氏物語』は、桜の花が咲き誇る天皇王朝絵巻であるが、ここには「あわれ」という語がなんと!1018回登場する。

このようにして桜は「もののあわれ」、無常に消えていく運命の美としての象徴を意味するようになっていく。そして、これには仏教の末法思想も関係しているといわれているが、これも同じく天皇・朝廷が流した人生の無常や死の美学の教えなのでその洞察は大正解だろう。

まとめる

⭕️桜は「もののあわれ」=無常に消えていく命の運命の美の象徴=仏教の末法思想とも関係している。

⭕️翻訳:もののあはれ→「者の哀れ」
天皇と朝廷の者たちが、自らの搾取により哀れに苦しむの民を見て、
しみじみとした深い喜びを表わす言葉。

平安時代は最も搾取が上手く行った天皇・朝廷の理想的な時代。民をいくら搾取しても彼らは仏教の死の教えの美学で怒らず念仏を唱えているだけ。


江戸時代

農村社会中心の庶民にとっては、桜はまだ「田植えを教えてくれる桜」、美しさ、華やかさの象徴であった。江戸時代になり幕府によって向島や上野など桜の名所が数多くつくられ、満開の桜を愛でる「花見」が庶民の文化として定着するようになると、桜は名実とともに富士山とともに日本を代表する文化的象徴となった。つまり日本人全体が、桜を国花として考えはじめたのである。

だが同時に、日本人全体が桜を自分と重ね合わせる素地を形成したことを意味していた。

明治時代:「散る桜」と「大和魂」によるイデオロギー政策

天皇王政復古の明治維新で幕府が倒れ明治政府とになると、桜はその愛国で軽く死ねの意味へとプロパガンダされていく。

現・日本政府、大プッシュの国学者の本居宣長

天皇の政府である明治政府は、富国強兵をスローガンに天皇主権の中央集権体制による強力な統一国家を作り上げる必要性に迫られていた。そのシンボルに選ばれたのが、富士山でも松でも梅でもなく、「桜」と、江戸期の勝手な創作、「大和魂」であった。特に江戸時代の国学者の本居宣長の歌を取り上げた。

⭕️「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」

(大和心を一言で言えばどういうものか、私は直ちに朝日に輝き映じる山桜花ようなものだと答えるだろう)

などという意味でないのは流石に字面で分かるので、
翻訳にトライしてみる。

⭕️天皇の大和国の大和朝廷があった場所が敷島。
敷島=崇神天皇・欽明天皇が都を置いた、大和 (やまと) 国磯城 (しき) 郡の地名。
⭕️朝廷は朝廷だけに日の出と同時に仕事をする。

とはば=人問わば=人に問われたならば
にほふ=におう=臭う
か・・・
ほふ=屠る①体などを切り放つ。ばらばらにする。
※古事記(712)中「其の軍士を斬り波布理(ハフリ)き」
翻訳「その軍士を切り屠りき」
② 殺す。ほふる。
読本椿説弓張月(1807‐11)後「国を争ひ、人を屠(ハフ)り」
翻訳「国と争い、人を屠り」

このどちらか。

⭕️翻訳「敷島の大和心を〜
人に問われたならば朝日に屠る山桜の花(血しぶき)」の日常。

⭕️翻訳「敷島の大和心を〜
人に問われたならば朝日に匂う山桜の花(血しぶき)」の日常。

山桜の花

天皇の明治政府は、大和魂を象徴するのが桜であり、天皇・朝廷の平安期の王朝絵巻の「散る桜」を再登場させ、「国=天皇のために桜のように軽く散れ」というイデオロギー政策を展開していくことになる。

大和の国

⭕️第一期ユダヤの略国で出来た国が大和の国。
⭕️第二期が日本国だ。


神道

明治3年1月3日(1870年2月3日)「大教宣布詔」、「治教を明らかにして惟神の道(かんながら)を宣揚すべし」=神道。

⭕️この一年弱前に、

軍事

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