ヤーセル・アラファート
4874文字
冒頭以外日本語情報なので投げ銭制
ヤーセル・アラファート(Yasser Arafat )
ヤセル・アラファトはファタハとパレスチナ解放機構の長であり、最終的にはパレスチナ国家自治政府の大統領(「ライス」)となった。彼は1929年8月4日または8月24日にカイロでラーマン・アブデルラウフ・アラファト・アルクドワ・アル・フサイニーとして生まれ、2004年11月11日にパリで亡くなった。彼の父親はアブドゥル・アル=クドワ(またはキドワ)である。彼の母親はハミダ・カリファ・アル・フセイニで、エルサレムの大ムフティ、ハジ・アミン・エル・フサイニーの多くのいとこのうちの1人である。
アラファトの母親は彼が5歳のときに亡くなり、彼はその後の4年間をエルサレムの叔父のもとで過ごしたとされている。その後、家族はエルサレム、そしてガザに移り住み、そこで(父親の)アブドゥル・アル=クドワは最終的にムスリム同胞団(イフワーン)の政治活動に積極的になり、ムフティのグループにも関わるようになった。アル=クドワは、ガザのパレスチナ・アラブ人のために武器を投下したドイツの潜水艦の連絡係を務めた。
ヤセル・アラファトは、1948 年にガザの大ムフティ・ハジ・アミン・アル フサイニーの組織の一員として、パレスチナ闘争でキャリアをスタートしました。彼は、イスラム教の聖地の名前にちなんでアラファトという名前を名乗りました。 後にカイロの学生として、ガマール・アブドゥル・ナセルにパレスチナ学生組合の運営を任されました。卒業後すぐにクウェートに移り、友人たちとファタハを結成した。彼の戦闘名は「アブ・アマル(Abu Amar)」だった。
1967年の6日間戦争でアラブ人が敗北した後、アラファトはパレスチナのアラブ指導者のトップに上り詰めた。 カラメの戦いでイスラエル軍に勝利したファタハは、アラファトを英雄に押し上げ、アハメド・シュケイリに代わってPLO議長に就任した。
しかしアラファトは、国連によってパレスチナ人民の唯一の代表として認められたPLOの正当性を獲得し、最終的にPLOを政治的な方向に導き、オスロ原則宣言でイスラエルを承認し、イスラエルとの和平プロセスを開始した。これにより、1994年にイツハク・ラビン、シモン・ペレスとともにノーベル賞を受賞した。
ヤセル・アラファトの詳細な伝記については、「ヤセル・アラファト - 伝記」を参照してください。
パレスチナ解放機構Wikipedia
創設とアラファートの加入
1964年1月にエジプトでアラブ連盟が開催した第一回アラブ首脳会議で設立され、イスラエル建国で難民となったパレスチナ人の対イスラエル闘争の統合組織となり、反イスラエルの中心勢力となった。1967年の第三次中東戦争がアラブ諸国側の敗北に終わると、ヨルダンで反イスラエル闘争を行って越境攻撃を撃退するなどの大きな戦果をあげてパレスチナ人の間に名声を集めていたファタハが影響力を高めた。1969年2月、エジプトのナセル大統領はファタハの指導者であるヤーセル・アラファートにパレスチナ問題の全権を委任して第三次中東戦争でイスラエルに奪われたヨルダン川西岸とガザ地区で構成された独立国家を目指すことを助言し、アラファートはPLOの第3代議長に就任してファタハを中心に機構を再整備し、実質上のパレスチナ亡命政府となった。
湾岸戦争
1990年のイラクのクウェート侵攻に始まる湾岸戦争では、イラクのサッダーム・フセインがPLOの支持を打ち出し、PLOの側もイラクに近い動きを見せたため、国際的にイラク寄りとみなされて孤立。イラクと対立するペルシア湾岸諸国からの援助を打ち切られて財政的にも(PLOは)苦境に陥った。
生い立ち
少年時代をカイロおよびエルサレムで送った後、カイロ大学で工学を学んだ。学生時代にはパレスチナ学生連合に所属し、1952年から1956年まで議長として活躍した。また、この時期にユダヤ人に興味を持ち、テオドール・ヘルツルの本を読んだり、ユダヤ人街の礼拝に出席してそれを知った父親に殴られたこともあったという。
第三次中東戦争での敗北で権威が失墜していたエジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領から消耗戦争でのファタハの活躍を注目され、パレスチナ問題の全権を委任されたアラファートは「パレスチナの指導者」に迎えられて1969年にPLOの議長としてパレスチナ解放運動の指導者に立つこととなった。
パレスチナ解放機構/PLO
1964年、ナセルなどの支援で結成された、イスラエルによって占領されているパレスチナのアラブ人の解放を目ざす武装組織。70~80年代、アラファト議長に指導され、盛んにゲリラ活動を行った。90年代には中東和平に転じ、イスラエルとの二国家共存に踏み切り、パレスチナ暫定自治政権を樹立したが、2000年頃以降は二国家共存を拒否するイスラーム原理主義組織ハマスが台頭し、政権を失った。
1964年5月に、エジプトのナセル大統領などのアラブ連盟の支援を受けて、パレスチナ解放機構が組織された。この Palestine Liberation Organization の略称がPLO。同年5月、東エルサレムで最高機関の国会にあたるパレスチナ民族評議会(PNC)第1回会議を開催し、内閣にあたる執行委員会、軍事部門のパレスチナ解放軍(PLA)、財政部門のパレスチナ民族基金(PNF)を発足させ、「パレスチナ民族憲章」を採択してイスラエルに対する武力闘争とユダヤ国家の撲滅を呼びかけた。PLOは当初は必ずしもゲリラ闘争やテロを戦術とはしておらず、パレスチナ国家の建設を目指すアラブ人の国際機関という性格が強かった。PLOはいくつかの政治団体によって構成されていたが、武装闘争を志向するアラファトの属するファタハのほかに、最も急進的なマルクス=レーニン主義を掲げたパレスチナ解放人民戦線(PFLP)などの各派があった。
パレスチナ解放機構が結成されたことに対してイスラエルは神経を尖らし、それを支援しているエジプトとシリアに対して警戒を強め、武力による脅威の排除の機会を狙った。
アラブ連盟はこれ
第3次中東戦争
1967年6月、第3次中東戦争(六日間戦争)でエジプトを主体とするアラブ軍はイスラエルに敗北し、パレスチナ人の居住地であるヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)とガザ地区、シナイ半島をイスラエルに占領され、多数のパレスチナ難民が生まれ、周辺のアラブ諸国に逃れた。
この敗北はアラブ諸国に大きな衝撃を与え、パレスチナ難民の救済のためにはパレスチナの地を奪回しなければならないと言うことが共通の目的となった。
アラファトの登場 PLOでは1969年2月に明確な武力闘争を掲げるファタハの指導者アラファトが議長に就任、ゲリラ戦術によるイスラエルに対する抵抗とパレスチナの解放を実力で勝ち取る路線へと転換した。 → パレスチナ問題/中東問題(1970年代)
1974年のモロッコのラバトで開かれたアラブ連盟首脳会議では「パレスチナ唯一の代表」と認められたPLOへの資金援助をアラブの産油国は義務付けられることになり、同年にはパキスタンのラホールのイスラム諸国会議機構首脳会議でもアラファートは演説してイスラム諸国39ヶ国首脳とバードシャーヒー・モスクでの金曜日の集団礼拝に参加した。
アラブ諸国とイスラム諸国から多大な支援を受けたアラファートは国連総会で非政府組織の代表としては初めての演説を行い、1979年には外国の要人では初めてイスラム革命後のイランを訪れて反イスラエルながらアラブ諸国と対立していたルーホッラー・ホメイニーの支援も取り付けた。
しかし、1983年にレバノン内戦でのシリア大統領ハーフィズ・アル=アサドとの不和から拠点であったダマスカス(シリア)とトリポリ (レバノン)を追放され、ハビーブ・ブルギーバの招きでチュニジアのチュニスにPLOの本拠地を移す。1985年にヨルダンと和解してアンマンでヨルダンとパレスチナによる連邦制で合意する。1988年7月にヨルダン国王フセイン1世がアブドゥッラー1世の時代から主張し続けたパレスチナの領有権を破棄すると、
同年11月にアラファートはパレスチナ国家を建国するとしてパレスチナの独立宣言を発表し、イスラム世界や非同盟諸国と共産圏を中心に国家承認を得て翌1989年4月にパレスチナ中央評議会はアラファートをその「大統領」に選出した。
ワシ感想
アラファトはデタラメに敵でも味方にしてく・・外交官の才能がスゴイんだなと思った・・(;´Д`A
イスラエルはこれを恐れていたのか?
オスロ合意の崩壊
イスラエルのアリエル・シャロン(後の首相)がエルサレムの神殿の丘にあるイスラム教の聖地に踏みこんだ事件をきっかけにインティファーダ運動が起こり、イスラエルとパレスチナの対立は決定的となった。
パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区や西岸の状況が置かれている状況は悪化した。インティファーダの主流となった非PLO系のハマースの上級幹部マフムード・アル=ザハールはイスラエルとの交渉が停滞したことからアラファートが指示したと述べた。
イスラエルのシャロン首相は「アラファトがいる限り和平交渉はできない」として、アラファトはイスラエル政府からの信頼を失っていった。
アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領も、アラファートがテロを放置していると述べた。
イスラエルはアラファートをテロ蔓延の原因とみなし、2001年よりヨルダン川西岸地区のラマッラー(ラマラ)にあるパレスチナの議長府(大統領府)は長らくイスラエル軍によって包囲され、アラファートは軟禁状態に置かれた。
パレスチナ人はアラファトでなくハマスを選挙で選んだため、
現在のジェノサイドの未来が決まった・・・
おわり
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