92.サブラー・シャティーラ虐殺《櫻井ジャーナル中心に》
前回の重要な補足記事 5919文字。
この日は、約3,500人のパレスチナ人とレバノン人の市民が、イスラエルの占領支援を受けたキリスト教徒民兵によって、サブラとシャティラのパレスチナ難民キャンプで殺害された#SabraAndShatila大虐殺から41周年を迎える。
決して忘れず、決して許さない!
「サブラとシャティーヤの大虐殺」
子供、女性、高齢者の「血の大虐殺」
1982年9月16日から18日にかけて、イスラエル占領軍の支援を受けたキリスト教民兵が、約3500人のパレスチナ人とレバノン人を虐殺した。
1983年、国連はこの大虐殺を「ジェノサイド」と表現した。
覚えていない人のために説明すると、 #イスラエルの大量虐殺と侵略は通常どおりです。
1982 年、イスラエル占領軍 (IOF) が #ベイルート #レバノンに侵攻し、88 日間包囲し、推定 18,000 人が死亡しました。一滴の水も一切れのパンも許されませんでした。
「ベイルートの肉屋」国務大臣時代のシャロン
概要
1982年9月16日、レバノンのキリスト教徒の民兵がベイルートのサブラ地区と近くのシャティーラ難民キャンプに入り、3ヶ月前にレバノンに侵攻してきたイスラエル軍が見守る中、出口を封鎖し、夜間に照明弾で現場を照らしながら、36時間に及ぶイスラム教徒の男性、女性、子供の虐殺に着手し、数百人の死者を出し、世界に衝撃を与えた。
欧米のジャーナリストを含む独立した目撃者は、乳児を含む多くの犠牲者が生前に身体を切断されていたことを知り、愕然とした。死者の数は400人以上から数千人と推定されているが、正確に何人が死んだのかは不明である。多くの遺体は、犯人によって現場から運び出された。
アラブニュースが数日後に報じたように、この大虐殺は「イスラエルの侵略者の共謀で行われ、世界中から恐怖の反応を呼んだ」と、イスラエルを含めて報じられた。
ロンドン: 1982年のサブラとシャティーラの虐殺は、レバノンの近年の激動の政治史の中で最も重要な出来事の一つであった。この大虐殺では、レバノンのキリスト教右翼民兵がベイルート南部のサブラとその近くのシャティーラというパレスチナ難民キャンプに侵入し、パレスチナ人とイスラム教徒のレバノン人を中心に数百人(3,000人以上との情報もある)が殺害された。
民兵は、1982年の侵攻後、イスラエル占領軍がすでにレバノンの首都を支配していた時に、多くのパレスチナ人指導者が居住していた近隣地域とキャンプに入り込みました。
一部の情報筋は、9月16日の午後6時頃から9月18日の午前8時頃まで、イスラエル軍の目の届くところで大量殺人が行われたと記録している。実際、情報筋によると、キリスト教民兵は、イスラム教徒が多い西ベイルートへの進出の一環として、サブラとシャティーラからパレスチナ解放機構(PLO)の戦闘員を「一掃するように」イスラエル軍から「命令された」とさえ言われている。
パレスチナの抵抗運動を支持したとして、元ウズベキスタン駐在イギリス大使のクレイグ・マーリーは10月16日に「テロ防止法」に違反したとして逮捕された。アイスランドでパレスチナ人を支持する抗議活動に参加、イギリスへ戻って来たところだった。
現在のイギリス首相、リシ・スナックはハマスに協力した者に「責任を取らされる」と宣言、イスラエル政権への支持を誓っている。ウクライナに対するのと同じように、イギリス政府はイスラエルを軍事支援する用意があるともしている。
ーーサブラー・シャティーラ虐殺ーー
イスラエルが建国されてからイギリスの労働党はイスラエルを支持していたが、そうした政治的な立場を大きく変える出来事が1982年9月に引き起こされた。レバノンのパレスチナ難民キャンプのサブラとシャティーラでパレスチナ難民が虐殺されたのだ。
キリスト教マロン派系のファランジスト党のメンバーが虐殺したのだが、その黒幕はイスラエルだった。ファランジスト党の武装勢力はイスラエル軍の支援を受けながら無防備の難民キャンプを制圧し、PLOは追い出されてしまう。
ファランジスト/イスラエルは死体を持ち去ったり爆弾を仕掛けるなど隠蔽工作を行ったこともあり、正確な犠牲者数は不明だが、数百人、あるいは3000人以上の難民が殺されたと言われている。
この虐殺の序章は1981年6月30日にイスラエルで行われた選挙。春の段階では労働党がリクードを引き離していたが、6月7日に実行されたイラクのオシラク原子炉爆撃で形勢は逆転した。この爆撃でリクードの支持率は一気に上昇、選挙で勝利している。
7月に入るとベイルートにあったPLOのビルをイスラエル軍は空爆、国連のブライアン・アークハート事務次長の説得で停戦する。イスラエル側は戦争を継続するだけの準備が出来ていなかった。
1982年1月にアリエル・シャロン国防相はベイルートを極秘訪問し、キリスト教勢力と会談、レバノンにイスラエルが軍事侵攻した際の段取りを決める。その2週間後には、ペルシャ湾岸産油国の国防相が秘密裏に会合を開き、イスラエルがレバノンへ軍事侵攻してもアラブ諸国は軍事行動をとらず、石油などでアメリカに敵対的なことを行わないと言う内容のメッセージをアメリカへ送った。
6月3日に3名のパレスチナ人がイギリス駐在のイスラエル大使、シュロモ・アルゴブの暗殺を試みたが、この3名に暗殺を命令したのはアラファトと対立していたアブ・ニダル派。
イスラエル人ジャーナリストのロネン・ベルグマンによると、暗殺を命令したのはイラクの情報機関を率いていたバルザン・アッティクリーティだという(Ronen Bergman, “Rise and Kill First,” Random House, 2018)が、この組織には相当数のイスラエルのエージェントが潜入していて、暗殺の目標を決めたのもそうしたエージェントだったともされている。この事件を口実にしてイスラエルは6月6日にレバノンへ軍事侵攻、1万数千名の市民が殺された。(Alan Hart, “Zionism: Volume Three,” World Focus Publishing, 2005)
アメリカ政府の仲裁で停戦が実現、8月21日にイスラエル軍が撤退、PLOも撤退を始めて9月1日には完了、12日には国際監視軍も引き揚げる。その直後、9月14日にファランジスト党のバシール・ジェマイエル党首が爆殺された。レバノンへの軍事侵攻を目論んでいたシャロンにとって好都合な出来事。その報復だとして同党のメンバーがイスラエル軍の支援を受けながらサブラとシャティーラ、両キャンプを襲撃したわけだ。
この虐殺はイスラエルに対する批判を強めることになり、EUを中心にBDS(ボイコット、資本の引き揚げ、制裁)が展開される。歴史的に親イスラエルだったイギリスの労働党でもイスラエルに対する批判が強まり、党の方針が親パレスチナへ変更された。
そうした情況を懸念したアメリカのロナルド・レーガン政権はイギリスとの結びつきを強めようと考え、メディア界の大物を呼び寄せて善後策を協議。そこで組織されたのがBAP(英米後継世代プロジェクト)である。アメリカとイギリスのエリートを一体化させることが組織の目的で、特徴のひとつは少なからぬメディアの記者や編集者が参加したことだ。
そうした中、目をつけられたのがトニー・ブレア。1975年に大学を卒業した直後に彼は労働党へ入り、1983年の選挙で下院議員に選ばれている。その後、影の雇用大臣を経て1992年には影の内務大臣に指名された。
その彼が妻のチェリー・ブースとともにイスラエル政府の招待で同国を訪問したのが1994年1月。帰国して2カ月後にブレアはロンドンのイスラエル大使館で開かれたパーティーに出席しているが、その時に全権公使だったギデオン・メイアーからマイケル・レビーを紹介されている。その後、レビーはブレアの重要なスポンサーになった。
そのブレアが労働党の党首になるチャンスが訪れる。当時の労働党党首、ジョン・スミスが1994年の5月に急死、その1カ月後に行われた投票でブレアが勝利して新しい党首になったのである。
レビーだけでなく、イスラエルとイギリスとの関係強化を目的としているという団体LFIを資金源にしていたブレアは労働組合を頼る必要がない。そのブレアは「ニューレーバー」の看板を掲げ、「ゆりかごから墓場まで」という歴史的な労働党の路線を放棄した。外交面では「親パレスチナ」に傾いていた労働党を再び「親イスラエル」に戻した。
1997年5月に首相となったブレアの政策は国内でマーガレット・サッチャーと同じ新自由主義を推進、国外では親イスラエル的で好戦的なものだった。後にブレアはイラクへの先制攻撃を正当化するため、偽文書を作成している。
ブレアはジェイコブ・ロスチャイルドやエブリン・ロベルト・デ・ロスチャイルドと親しいが、首相を辞めた後、JPモルガンやチューリッヒ・インターナショナルから報酬を得るようになる。
こうしたブレアのネオコン的な政策への反発に後押しされて2015年9月から党首を務めめることになったのがジェレミー・コービン。アメリカやイギリスの情報機関もコービンを引きずり下ろそうと必死になり、有力メディアからも「反ユダヤ主義者」だと批判された。イギリスの支配システムは親パレスチナを許さない。
コービンに対する攻撃には偽情報も使っているが、その重要な発信源のひとつが2015年に創設されたインテグリティ・イニシアチブ。イギリス外務省が資金を出している。「偽情報から民主主義を守る」としているが、その実態は偽情報を発信するプロパガンダ機関だ。
そして2020年4月4日、労働党の党首はキア・スターマーに交代。彼はイスラエルに接近、自分の妻ビクトリア・アレキサンダーの家族はユダヤ系だということをアピールしている。彼女の父親の家族はポーランドから移住してきたユダヤ人で、テル・アビブにも親戚がいるという。労働党はブレアの路線へ戻った。
そもそもイスラエル建国にはイギリスの富豪が深く関係している。
イギリスの支配層は19世紀からロシア制圧を目指し、南コーカサスや中央アジア戦争を始めている。いわゆる「グレート・ゲーム」だ。これを進化させ、理論化したのがイギリスの地理学者、ハルフォード・マッキンダー。ユーラシア大陸の周辺部を海軍力で支配し、内陸部を締め上げるという戦略だ。
この戦略を可能にしたのは1869年のスエズ運河完成、75年にはイギリスが経営権を手に入れた。運河を買収した人物はベンジャミン・ディズレーリだが、買収資金を提供したのはライオネル・ド・ロスチャイルドである。イギリスは1882年に運河地帯を占領し、軍事基地化している。世界戦略上、スエズ運河はそれだけ重要だった。(Laurent Guyenot, “From Yahweh To Zion,” Sifting and Winnowing, 2018)
ディズレーリは1881年4月に死亡するが、その直後からフランス系のエドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルドはテル・アビブを中心にパレスチナの土地を買い上げ、ユダヤ人入植者へ資金を提供しはじめている。この富豪の孫がエドモンド・アドルフ・ド・ロスチャイルドだ。
中東で石油が発見されると、イギリスとフランスはその利権を手に入れようとする。そして1916年に両国は協定を結ぶ。フランスのフランソワ・ジョルジュ・ピコとイギリスのマーク・サイクスが中心的な役割を果たしたことからサイクス-ピコ協定と呼ばれている。その結果、トルコ東南部、イラク北部、シリア、レバノンをフランスが、ヨルダン、イラク南部、クウェートなどペルシャ湾西岸の石油地帯をイギリスがそれぞれ支配することになっていた。
協定が結ばれた翌月にイギリスはオスマン帝国を分解するためにアラブ人の反乱を支援。工作の中心的な役割を果たしたのはイギリス外務省のアラブ局で、そこにサイクスやトーマス・ローレンスもいた。「アラビアのロレンス」とも呼ばれている、あのローレンスだ。
知りませんでした!(;´Д`A
⬇️ このブログは写真入りで良い。
2023-09-17 日だから急遽、書いたんだろうね。
これを学んでいる最中。
◉「キリスト教マロン派」
◉「ファランジスト党」
とは?( ̄▽ ̄;)
つ〜〜か、この話入らなかった。
ユダヤ人の聖職者に騙されて十字軍が出撃する構図を思い出してしまった。この場合ダマしたユダヤ人はシャロン。
殺しに殺しまくったシャロンもラビ・オヴァディア・ヨセフに呪い殺される修羅の世界!(;´Д`A
つづく
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