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91.アリエル・シャロン首相パレスチナ・イスラエルの和平を全力破壊!

前回の続きです。9666文字

オスロ合意:一時期イスラエル・パレスチナは平和になるかと思われた

イツハク・ラビン首相は暗殺された

PLO:アラファト「ベリーショック、悲しい」などと話してる。1分45秒目〜


【とても重要】イスラエルのリグルード党とは?

シオニストの過激派・ユダヤ教(旧約聖書)原理主義の右派政党リクード党

リグルード党とは1973年にメナヘム・ベギンらによって設立された現代のイスラエルの政党。リグルードとはヘブライ語で「団結」という意味で、もともとはシオニズム運動の「修正派」と呼ばれるグループ。

メナヘム・ベギン

彼らはイスラエルの領土を旧約聖書で神に与えられた「約束の地」の範囲まで広げ、大イスラエルを実現することを主張している、アラブに対して最も強硬な保守派、右派政党である。1977年にベギンが政権を取り、その後もシャミル、シャロン、ネタニヤフの三人の首相を出しており、現在はネタニヤフが指導している。そしてパレスチナ人はアラブ人。

ユダヤ人が奪うつもりなのはパレスチナの地だけではない。これが修正派だけど、
聖書的にはこれが正しい。


今回の主人公イスラエル アリエル・シャロン首相

イスラエル史上、最もパレスチナに強硬姿勢を貫くタカ派政治家。タカ派とは、好戦的で戦争を選ぶ姿勢を持つ人や集団を指す政治用語。

アリエル・シャロン(1928年2月26日 - 2014年1月11日)は、イスラエルの首相(第15代)。カディーマ党首(初代)、リクード党首(第4代)を歴任。多く武勇伝が語られている超有能な軍人。愛称はブルドーザー。

家庭は熱心なシオニストであった。母親から常に「アラブ人を信じるな」と教えられて育った。イツハク・ラビンはシャロンを「我が国史上最も偉大な野戦指揮官」と呼んだ。

今は平和の使者のイメージだけになっているラビン首相も軍人、それも将軍。

イツハク・ラビンは1950年初頭にイスラエル国防軍(IDF)の訓練ドクトリン(基本原則)の形成に貢献し、1959年から1963年までイスラエル国防軍の作戦局を率いた。彼は1964年に参謀総長に任命され、1967年の第三次中東戦争でのイスラエルの勝利を監督した。

シャロンの軍人時代の活躍凄そうだけど、今回は端折る。

シャロンは軍をやめて政治に入り、リクード党に入党した。

彼はリクードが主導する政府で多くの閣僚のボストを務めた。彼は国防大臣として、1982年のレバノン戦争を指揮した。

北部のレバノンを拠点とするパレスチナ解放機構(PLO)を一挙につぶそうと、1982年、「ガリラヤの平和」作戦と称して陸上部隊をレバノンに侵攻させた。当初の目標のレバノン南部を制圧するに留まらず、レバノンの首都ベイルートを激しく空爆、またパレスチナ側を支援したシリア空軍を一方的に攻撃した。

軍人時代のシャロンとアラファト(ゲリラか?)

結局9月1日までにすべてのPLO部隊はレバノンを離れ、アラファトもチュニスに退去した。退去した直後9月16、17、18日の3日間にわたって行われたアリエル・シャロンが主導したパレスチナ難民のサブラとシャティーラ虐殺事件では、2つのキャンプの住民3000人以上が虐殺された。この事件でシャロンはアラブ人の間で「ベイルートの肉屋」として知られるようになった。

この殺し方が残虐で伝説級に凄まじい。

この戦争の犠牲者は、死者1万9085人、負傷者3万302人、孤児となった子供約6000人、家を失った人約60万人。

イスラエルとの和平プロセスはイツハク・ラビンの暗殺から停滞した。

1999年、シャロンはリクード党首の就任を果たす。彼は労働党のバラック政権に対抗する。ただし、彼は露骨な倒閣運動は行わず、外交・安全保障政策に関してリクードの拒否権を持つ大連立政権の構想を模索していた。1999年からバラック政権はアメリカを仲介にパレスチナ和平を積極的に進める。

2000年7月にキャンプデービッドで会談したイスラエルのバラック首相は「クリントン・パラメーター」(キリスト教とイスラム教の聖地を含む東エルサレムの一部に加えてヨルダン川西岸地区の97%とガザ地区全域をパレスチナ国家として認める)を受け入れるも、アラファートは言葉を濁したため実現しなかった。

(世間は言葉を濁したで終わりだが、理由らしきものは見つけた)

このキャンプ・デーヴィッド交渉が決裂したことを機に、首相バラックヤーセル・アラファート議長と和平の協議を重ねているさなかの同年9月28日に、イスラエルのアリエル・シャロン(後の首相)は1000人以上の武装護衛を引き連れてかつてエルサレム神殿であった神殿の丘の岩のドーム(イスラム教の聖地)に踏みこんだ。そこで、「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言した。

この事件をきっかけにインティファーダ運動が起こり、イスラエルとパレスチナの対立は決定的となった。パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区や西岸の状況が置かれている状況は悪化した。

インティファーダ〔振り払うの意〕とはコレのこと


イスラム原理主義ジハード主義者の
ハマス指導者ヤシン

ハマスはイスラエルがPLOのアラファト対策で創設した武装組織

ハマスの指導者ヤシンは自爆テロを含む戦術を用いたイスラエルへの攻撃の呼びかけを繰り返す。ヤシンはメディアに対し、

「暗殺政策がハマスを終わらせないことを証明する日が来るだろう。
ハマスの指導者たちは殉教者になることを望み、死を恐れない。
ジハードは続き、抵抗は勝利を得るまで、あるいは殉教者になるまで続くだろう」。2003年9月6日

彼は、すべての国家勢力とイスラム勢力の間の団結と、それらの間のすべての意見の相違を脇に置くよう呼びかけた。

「我々はこの道を選び、殉教か勝利で終わるだろう」というヤシンの宣言は、後にパレスチナ人の間で繰り返されるマントラとなった。

2003年8 月エルサレムでパレスチナ人のジハード(自爆テロ)により爆発したバス。
7 人の子供を含む 23 人のユダヤ人が殺害された。

インティファーダの主流となった非PLO系のハマースの上級幹部マフムード・アル=ザハールはアラファートが(ジハードを)指示したと述べた。

⭕️イスラエルとアメリカのために嘘をつく
マフムード・アル・ザハル(1945年5月6日生まれ)は、パレスチナの政治家。彼はハマスの共同創設者であり、ガザ地区のハマス指導部のメンバー。彼は、2006年3月に発足したハマス主導のパレスチナ自治政府(第一次ハニヤ政権としても知られる)で外務大臣を務め、同年3月20日に就任した。

シャロン政権誕生

イスラエルで2001年リクード党のシャロン政権が登場して以後、オスロ合意による和平交渉は当たり前に行き詰まった。米国における2001年の9.11事件以後シャロン政権は一層強硬策に転じ、2002年にはパレスチナ自治区に軍事侵攻し、これに対する自爆テロも激発した。

思い出せば、9・11以降、アラブ人がテロリストというキャンペーンが始まったね。

2001年「9・11」「テロとの戦い」ムードは、シャロン政権に味方した。シャロンも「テロとの戦い」としてパレスチナのテロ組織へ攻撃を強めた。

イスラエルのシャロン首相は「アラファトがいる限り和平交渉はできない」。アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は、アラファートがテロを放置していると考えるようになった。(グル)

ジョージ・W・ブッシュ大統領

イスラエルはアラファートをテロ蔓延の原因とみなし、2001年よりヨルダン川西岸地区のラマッラーにあるパレスチナの議長府(大統領府)は長らくイスラエル軍によって包囲され、アラファートは軟禁状態に置かれた。
2003年3月19日にアラファートはアメリカ・イスラエルの圧力のもと和平推進派のマフムード・アッバースを初代首相に任命し、

マフムード・アッバース

アッバース内閣はテロ抑制と治安の回復を掲げ、テロ抑制に対するアメリカ・イスラエルや自治政府の民主化改革に対する国際社会の期待を担い、同年6月にブッシュ大統領、シャロン首相とヨルダンのアカバで会談し、アメリカの発表した平和のためのロードマップを実行することで合意した。しかし、ハマスらによるテロは一向にやまず、事態は一層混迷を深めた。

平和のためのロードマップ(英語版:酷そうな法案ですね)

アラファートは警察や憲兵など複数の治安部隊を相争わせながら配下に置いており、懸案の治安回復について改革を望む首相の代表する行政機関に自らが牛耳る安全保障部門を明渡すことを拒否した。(本当はどういう状態なんだろうね?)

この結果、同年9月6日にアッバース首相はアラファートに辞表を提出、アッバース内閣は半年に満たない短命に終わった。これ以降、和平交渉は再び停滞した。

ハマス停戦提案: 平和か一時停止か?

急進的なパレスチナのイスラム主義組織ハマスが、イスラエルとの和平について、より穏健な新しい見解を採用したのだろうか?

ここ数カ月、『エコノミスト』誌から『ナショナル・パブリック・ラジオ』まで、エリート報道機関は、イスラエルとの「長期停戦」を交渉する意思があることを示唆する、創設者シェイク・アーメド・ヤシンなどのハマス指導者のインタビューを取り上げた。

2003年12月1日、ヤシンは、ハマスが「この敵(イスラエル)と長期的な停戦に達する、あるいは行く用意がある」と宣言した。しかし、敵は......すべてのパレスチナ領土から撤退し、......あらゆる形と種類の占領を撤廃しなければならない」。

その直後の2004年3月22日、

ハマス精神的指導者ヤシン師、イスラエル軍に殺害される

ヤシンは2004年3月22日、イスラエルの攻撃で殺害された。彼がガザ市での早朝の礼拝から車椅子に乗せられている間に、イスラエルのAH-64アパッチ・ヘリコプター・ガンシップがヤシンと彼のボディーガードの両名に向けてヘルファイアミサイルを発射した。

AH-64アパッチ
肉!って感じのヤシンの死体の写真も見たけど貼り付けるのはやめる(汗)

現場周辺には多数の住民が繰り出し、「我々は彼(ヤシン師)の道を歩む」「アッラーの名にかけて報復を!」などと叫んでいる。

リンク


イスラエル:アラファト議長殺害まで公言

イスラエル政府は(2003)9月11日の治安閣議で、パレスチナ自治政府のアラファト議長を「和平の障害」とみなして「排除」する方針を決定ました。「排除」とは追放を意味し、追放を実行すれば抵抗するだろうから殺害もありうると報じられています。現に9月14日、イスラエルのオルマート副首相は「議長殺害は確実に選択肢の1つ。われわれはテロの指導者全員の殺害を試みており、アラファトも対象者の一人だ」と公然と主張した。

またしてもイスラエルの占領支配を正当化し擁護する大手メディア

ここに至っても、未だに日本の大手メディアはシャロンの言い口、つまり「平和の障害アラファト」という転倒したデマゴギーを垂れ流しています。

「自爆テロ」の原因は何なのか。問題の真実、本質を全く報道しようとはしません。大手メディアは、テロの取り締まりを強化しようとしたアッバス内閣をアラファト議長が退陣に追い込んだと、イスラエルの説明通りの報道を繰り返しています。「テロを容認するアラファト議長」「アラファト議長の独裁」等々、今起こっている本質がまるで“自治政府の内紛”であるかのような報道に終始しているのです。

しかもイスラエルに対しては、弱々しく「自制を求める」「やりすぎ」と言うだけで、事実上、イスラエルがアラファト議長を殺害してもそれをやむをえないこととして容認するような姿勢さえうかがわれます。

アラファト死去

2004年10月10日にアラファートは体調を崩し、10月15日のラマダン(断食月)入りの金曜礼拝では気分不良のために途中で退出して客人への対応もしなかった。10月19日にはエジプトから招かれた医師団が診察した。10月27日より嘔吐を繰り返すようになり、何度か意識を消失した。アラファートは、入院中に大統領府がイスラエル軍によって破壊され戻れなくなることを恐れていた。10月29日、体調の悪化を理由に治療のため、イスラエルはアラファートの軟禁を解き、ヨルダン政府によりアンマン経由でフランスに移送されたが、脳出血のため昏睡状態に陥り、11月11日午前3時30分にパリ郊外クラマールのペルシー仏軍病院で死去した。

アラファートは生前に遺体を東エルサレムまたはその近郊に埋葬してほしいと希望していたが、東エルサレムを自国の不可分の領土としているイスラエル政府はこれを拒否したため、遺体はカイロに運ばれて国葬された後、11月12日にラマッラーにある議長府敷地内に埋葬された。

アラファートには、軟禁状態となったころから健康不安の噂があった。また多数の敵を抱えた状況から、アラファートの死因に関しては毒殺疑惑があり、スーハ夫人がアラファートの遺品をアルジャジーラに持ち込んだ。スイスのローザンヌ大学病院にある放射線物理学研究所のチームが検査した結果、遺品からは高濃度の放射性物質ポロニウム210が検出された。スーハ夫人は毒殺の証拠であると主張し、フランスの裁判所に刑事告訴した。

パレスチナ自治政府はアラファートの死因究明のための遺体掘り返しと検体サンプルの採取を承認し、2012年11月27日、アラファートの墓を掘り返して遺体の検体を採取したこと、および、フランス、スイス、ロシアの科学捜査研究者が死因を鑑定すると公表し、毒殺が確認された場合は国際刑事裁判所(ICC)に提訴すると表明した。12月にスイスの調査団は遺体の組織からポロニウム210が発見されたと発表したが、フランスの調査団は自然死であるという調査結果を発表した。


こうしたシャロンの行動はオスロ合意の経緯をすべて覆すものであった。


全世界を驚愕させた!
シャロン首相のガザ地区等撤退!!(@_@;)

2004年2月シャロン首相は地元紙ハアレツの取材に対し、
突如として、「ガザ地区とヨルダン川西岸地区からの撤退計画」を打ち出し、全世界を驚愕させた!!(@_@;)

かねてよりパレスチナに融和的だった労働党は、即座にこの計画を支持。厭戦気分が高まっていた国内世論も総じてシャロンの計画に好意的だった。(厭戦戦争をするのを嫌に思うこと)

⭕️これは、パレスチナ人に今まで盗んだ土地を返す行為。(@_@;)⭕️

計画の波紋

国内外からの支持を得たシャロンだったが、自身が党首をつとめる右派政党リクードの反応は違っていた。『旧約聖書に基づく領土拡張が党是であるリクード』にとって、シャロンの行動は裏切りと捉えられた。シャロンは撤退計画を党員投票にかけ、党内の信任を得た上で国会での採決に持ち込む構えだったが、その目論見は砕かれた。

『旧約聖書原理主義のリクード党』

シャロンの政敵であるベンヤミン・ネタニヤフ元首相は多数派工作を公然と拒否、最側近だったリモール・リブナット教育相もシャロンからの離反を始め、強硬派のウジ・ランダウに至っては入植者と一体となって反対運動を展開し公然と叛意を示した。

5月2日に実施された党員投票日に、(わざわざ偶然にも)ガザ地区のグッシュ・カティーフで、入植者の母子5人がパレスチナ人の男に惨殺される事件が勃発した!(@_@;)
これにより否決への流れは決定的になり、実に60%以上が反対し、シャロンは面子を潰された。

党員からノーを突きつけられたシャロンだったが、高い世論の支持を背景に、6月6日、計画に反対する国家統一党の閣僚を解任し閣議決定に持ち込む。閣議決定後、この計画を否とする国家宗教党の閣僚2人が抗議の辞任に出る。党内の強硬派との溝が深まる中、10月には国会に上程、リクードからは17人の造反を出しながらも、労働党や左派政党からの支持を取り付け67対45で国会を通過させた。2005年2月16日には総額38億新シェケル(イスラエルの金)に上る入植者補償法案が国会を通過。

2005年8月7日に、撤退計画が最終閣議決定された。閣議では17人の閣僚が賛成したが、5人が反対に回り、ベンヤミン・ネタニヤフ元首相は閣議後財務相を辞任し倒閣に乗り出すことになる。閣議決定はなされ、計画は実行されることになった。

8月10日にはテルアビブで大規模な反対集会(主催者発表30万人、警察発表20万人が参加)が行われた。

8月15日、イスラエル国防軍(IDF)がガザ地区を全面封鎖し、入植者に対し48時間の自主的退去を呼びかけた。

8月17日IDFは、最後まで籠城を続ける入植者と、それを強く支援するユダヤ教原理主義者やより過激なカハネ主義者の強制排除に乗り出した。反対派がシナゴーグに篭城し、IDFに対し激しく抵抗したが、8月22日には最後に残されていたネッツァリームも制圧。わずか1週間で(ユダヤ人)全入植者が退去させられた。

党員からノーを突きつけられたシャロンだったが2005年8月からわずか1週間で(ユダヤ人)全入植者が退去させられた。

シャロン首相いきなり昏睡!(@_@;)

イスラエルの芸術家ノーム・ブラスラフスキー(Noam Braslavsky)によるイラスト

2006年1月4日、脳卒中を発症し、意識不明となる。エフード・オルメルトが首相代行に就任し、権限委譲。数日後に大腸虚血疾患にみまわれ、大腸を切除シャロンは2014年に亡くなるまで永久植物状態となった。


シャロン首相は倒れる前から、様々なカバラの呪いや聖なる警告の対象となっていた。

ラビ・オヴァディア・ヨセフ

2006年1月4日にシャロンが脳卒中で倒れる前から、シャロンは様々なカバラの呪いや聖なる警告の対象となっていた。その中でも最も印象的だったのは、離脱の前夜、エルサレムのヤズディム・シナゴーグで土曜日の夜に行われたラビ・オヴァディア・ヨセフの定例説教だった。

⭕️ コレに続くんだよ・・・!( ;´Д`)

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