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最高位の大勲位菊花章頸飾受賞者の中曽根康弘と親友のレーガン大統領

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ワシが天皇の与える勲章に興味を持ち出した時の調べのメモを記事にしたnote。キッカケは中曽根の葬儀が国葬級だったから少し調べた。

天皇 皇后 両陛下

この動画で中曽根の最高位の勲章を知る。

大勲位菊花章頸飾は、日本の勲章の一つで、その最高位に位置する。また、日本の勲章では唯一、頸飾(けいしょく、ネックレスの意)の形状をとる。


大勲位菊花章頸飾を授与された西園寺公望

西園寺 公望(1849年12月7日] - 1940年〈昭和15年〉11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。

公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。

公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶ

平安時代末期頃から貴族社会において公卿に昇る家柄が限定されるようになり、藤原北家による摂家の確立に伴って家格が固定化し、鎌倉時代前期頃までに公家社会(宮廷)が形成された。公家社会においては、家格によって昇進できる官職が定まっていた。成立期の公家の経済的基盤は、荘園・公領に対する収取権であった。公家のうち、上流貴族は荘園寄進を受けて本家として荘園支配を行うことにより、また中流貴族は上流貴族や大寺社から預所などに任命されて荘園管理権を得ることにより、経済的基盤を築いていた。


大勲位菊花章頸飾の授与基準

日本国の最高勲章として、更に卓越した功績を成した者に対し大勲位菊花大綬章と共に授与されるか、すでに大勲位菊花大綬章を受章した者に加授されることになるが、外国元首への儀礼的叙勲を除くと叙勲例は非常に少なく、生前授与の例はさらに限られる。

中曽根康弘の内閣・自由民主党合同葬にて供えられた大勲位菊花章頸飾(中央左)(2020年10月17日、グランドプリンスホテル新高輪にて)

中曽根康弘  従一位

律令制下では、女王ないし臣下の女性に与えられる最高位であった。太政大臣(正従一位相当官)や、本来は位階の序列に含まれない令外官である関白の多くが従一位に叙せられた。

関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。

天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する摂政とは異なり、関白の場合、成人の天皇を補佐する立場であり、最終的な決裁者はあくまでも天皇である。従って、天皇と関白のどちらが主導権を取るとしても、天皇と関白が協議などを通じて合意を図りながら政務を進めることが基本となる。

中曽根スゲェ〜〜〜〜!(;´Д`)


従一位に叙された人物

古代・中世

石上麻呂 717年(霊亀3年)3月5日 (正二位)
橘諸兄 743年(天平15年)5月3日
藤原仲麻呂 760年(天平宝字4年)1月17日
藤原豊成 764年(天平宝字8年)9月24日
藤原永手 769年(神護景雲3年)2月
藤原是公 789年(延暦8年)9月19日 (従二位)
藤原良継 806年(大同元年)6月9日 (正三位)
藤原継縄 806年(大同元年)7月16日 (正二位)
藤原内麻呂 812年(弘仁3年)10月9日 (従二位)
藤原三守 840年(承和7年)7月7日 (従二位)
藤原緒嗣 843年(承和10年)7月23日 (正二位)
橘氏公 847年(承和14年)12月19日 (従二位)
藤原良房 857年(斉衡4年)4月19日
藤原基経 881年(元慶5年)1月15日
源融 887年(仁和3年)11月17日
藤原淑子 887年(仁和3年)11月21日
源多 888年(仁和4年)10月21日 (正二位)
藤原良世 900年(昌泰3年)11月18日 (従二位)
藤原忠平 932年(承平2年)3月29日
藤原定方 932年(承平2年)8月11日 (従二位)
藤原実頼 964年(康保元年)1月7日
藤原在衡 970年(天禄元年)10月20日 (従二位)
藤原兼通 975年(天延3年)1月7日
藤原頼忠 981年(天元4年)1月7日
藤原兼家 986年(寛和2年)1月7日
源雅信 987年(寛和3年)1月7日
藤原為光 987年(永延元年)10月14日
源倫子 1008年(寛弘5年)10月16日
藤原道長 1017年(寛仁元年)12月4日
藤原頼通 1021年(治安元年)7月25日
藤原公季 1021年(治安元年)7月25日
藤原実資 1037年(長暦元年)1月5日
藤原教通 1058年(天喜6年)1月7日
藤原頼宗 1058年(天喜6年)1月7日
藤原師実 1065年(康平8年)6月3日
源師房 1074年(延久6年)1月28日
藤原信長 1088年(寛治2年)1月17日
源顕房 1094年(寛治8年)1月5日
源俊房 1094年(寛治8年)1月5日
藤原師通 1096年(嘉保3年)1月5日
源師子 1109年(天仁2年)
藤原忠実 1112年(天永3年)3月11日
源雅実 1113年(天永4年)1月6日
藤原忠通 1122年(保安3年)12月17日
藤原家忠 1131年(天承元年)12月22日
源有仁 1131年(天承元年)12月22日
藤原宗忠 1136年(保延2年)
藤原頼長 1149年(久安5年)7月28日
三条実行 1151年(仁平元年)8月21日
徳大寺実能 1157年(保元2年)1月24日
藤原宗輔 1158年(保元3年)1月6日
平清盛 1167年(仁安2年)2月11日
松殿基房 1167年(仁安2年)2月11日
藤原忠雅 1168年(仁安3年)8月10日
九条兼実 1174年(承安4年)1月7日
藤原経宗 1174年(承安4年)1月7日
藤原師長 1177年(安元3年)3月5日
近衛基通 1180年(治承4年)4月21日
平宗盛 1183年(寿永2年)1月21日
藤原兼房 1194年(建久5年)1月6日
藤原兼雅 1198年(建久9年)1月5日
九条良経 1204年(建仁4年)1月5日
藤原頼実 1204年(建仁4年)1月5日
藤原範季 1205年(元久2年) (従二位)
近衛家実 1207年(建永2年)1月5日
藤原隆忠 1211年(承元5年)1月5日

以下略

中曽根スゲェ〜〜〜〜!(;´Д`)


中曽根元総理の合同葬はなぜこの日に行われたのか?

10月17日はその年に収穫された新穀(初穂)(初生贄)を天照大神に捧げて感謝する神嘗祭の日である。また靖国神社では最も重要な祭事とされる秋の例大祭の初日に当たる。その日に中曽根康弘元内閣総理大臣の内閣と自民党による合同葬が行われた。

中曽根元総理の国葬級の葬式10月17日

神嘗祭の日 
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その年に収穫された生贄天照大神に捧げて感謝する神嘗祭の日


靖国神社の最も重要な祭事の秋の例大祭の初日に当たる。


中曽根の政治功績

改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等、強い復古調姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」軍国主義者「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」などといった激しい批判を浴びた。教育改革については、文部省と日教組の二項対立の教育改革に終止符を打つため1984年に自身の私的諮問機関として臨時教育審議会(臨教審)を設置した。

アメリカが執心していた防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曽根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曽根は首相になって初めての訪米の途についたのである。

訪米中に中曽根が語ったとされる「日米は運命共同体」発言、「日本列島不沈空母化」(後述)および「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に愛称で呼び合うほどの“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くき日米安全保障体制を強化した。1987年(昭和62年)度予算で防衛費の予算計上額を日本の国民総生産 (GNP) の1%以内にとどめる三木内閣以来の方針を放棄し、「防衛費1%枠」撤廃。

こりゃ本当に仲が良いわ( ̄▽ ̄;)

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