【映画所感】 プロミシング・ヤング・ウーマン
男であることが嫌になる映画。
本年度のアカデミー賞で5部門にノミネートされ、見事、脚本賞に輝いた『プロミシング・ヤング・ウーマン』。
平静を装いつつ、興味津々の心持ちで劇場へ向かう。なるほど、この流れからのこういうオチの付けかたで、問題提起してくるのか。
「やられた。骨の髄までやられた」
鑑賞後は、良い意味でぐったり。どうしてもネタバレになるので、くわしく話せないのが歯痒いところ。
自分の思春期以降の言動や行動を、あらためて問い直す機会を与えてくれただけで、至極の脚本といえる。映像作品における性描写に関しては、少なくとも大きな転換点を迎えたはずだ。
“必殺仕事人”的な復讐劇なのかと思わせておいてからの、“大岡裁き”…いやいやどちらかといえば、情け無用の“遠山の金さん”。
「下手人をひったていっ!」とばかりにお白洲に座らされた男たち。
「打首獄門を申しつける。これにて一件落着!」
ただただ「は、はぁ〜」と、地面に額をこすりつけるしかない。
監督、脚本を務めたのは、エメラルド・フェネル。英国出身の女優であり脚本家・小説家。おまけに番組プロデューサーでもある才女。本作で、長編映画監督デビューというから恐れ入る。
勉強不足で申し訳ないが、イギリス製作の人気テレビシリーズ『キリング・イヴ/Killing Eve』の脚本担当および製作総指揮として、つとに有名らしい。
ここまでくると“才女”どころか“天才”の領域。
本作は、性暴力や性犯罪に対する認識を、もう一歩踏み込んだところに設定。被害を受けた側が負った傷は、男どもが考えているほど、軽いものではないと、真正面から戒めてくれる。
下手すれば説教臭くなりそうな主張を、ラブコメの要素を随所にはさみ込むことで解決。さらに全体を彩る、B級映画のテイストが、作品の面白さを際立たせる。
親友がレイプされ、結果的に自死を選んでしまったことで、前途有望だった進路を自ら閉ざしてしまった、医学生キャシー。
内に秘めた行き場のない怒りを、どうにかコントロールしながら生きる女性の息苦しさを、キャリー・マリガンが徹頭徹尾演じきる。
脇を固めるボー・バーナムやラヴァーン・コックスなど、性差別に敏感なキャリアを持つ俳優陣も申し分なし。
独特の色彩感覚の中で浮遊する、刺激的な音楽や凝った衣装など、どれもが印象的で、重いテーマなのにポップさを伴って進行していく。
「女のほうから誘ったんだろ」
「脇が甘いんだよ」
「こんなことぐらいで、大騒ぎするなよ」
「若気の至り…」
「君のほうが困ることになるぞ」
性犯罪の被害者に向かって、上記のようなことを脊椎反射的に考えたことはないだろうか?
主人公のキャシーは、やられた仕打ちを許さないし、相手が忘れることなど、死んでも容認しない。
止めに入らず、傍観していた者も同罪だ。犯罪に加担しているも同然。
このことは、性犯罪以外の暴力や、“いじめ”にもきっちりと当てはまる。職場をはじめ、様々なコミュニティーで起こるハラスメント事案にも共通する。
とりわけ男性側が、同性に対して甘やかしてきた部分…時として“武勇伝”として語られるような愚行は、その場の冗談で済ましてはならないものだ。
被害者とその周囲の人たちが、のちの人生を台無しにされているにもかかわらず、さしたるペナルティを受けることもなく、加害の事実をも忘却の彼方に葬り去ろうとするなど、絶対にあってはならない。
物語の結末から、決して目をそらすな。
意図的に映像化してこなかった核心部分が、とてつもないケダモノに姿を変え、スクリーンに解き放たれる。
いきなり、フェミサイドの現場を目撃する衝撃。
同時に、キャシーが仕掛けたトリガーも引かれる。
被害者のことを慮ることなく、幸せの絶頂に向かう加害者を、社会的に抹殺する究極奥義の発動。
キャリーのやり方に異を唱える人も多いだろうが、相手を上回る知力を尽くしてのリベンジに、カタルシスは確かに存在した。
少なくとも、復讐の連鎖を食い止めてくれたことには感謝したい。
男に本気を出されたら、女性の抵抗など、考えている以上に非力なのだ。この厳然たる事実を、今更ながら知らしめてくれたことだけでも価値がある。
起伏の激しい、制御不能なストーリーであっても、性犯罪被害者にやさしく寄り添う姿勢は、ラストまで一貫している。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』の前と後では、映像作品における性的表現に関しての意味合いが全くちがって見えるだろう。
今後、観客は疑わずにはいられない。
「本当にその行為は、双方同意の上なのか?」
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