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クルエラ

言うなれば、『プラダを着た悪魔』のサイコ・ノワール版。

琴線をパワー・コード一発で掻き鳴らされたぐらいのインパクト。ダーク・ヒロイン、「クルエラ・ド・ヴィル」の数奇に満ちた半生が、驚異の熱量でスクリーンに投影される。

不世出のヴィランを演じるのは、今や話題作に引っ張りだこのエマ・ストーン。その鬼気迫る演技は、ヒース・レジャー版の「ジョーカー」を彷彿とさせる。ゴミ収集車で逃走するクルエラが、夜空に向かって高笑いするシーンと、『ダーク・ナイト』のジョーカーが、車から半身を乗り出し、勝利の雄叫びを虚空に向けて放つ場面。構図の一致は、ただの偶然であるはずがない。

ロンドンが舞台のこの映画、要所要所で奏でられるブリティッシュ・ロックの名曲たちが、実に良い仕事をしてくれている。冒頭、ザ・ローリング・ストーンズの『シーズ・ア・レインボー』で心奪われ、同じく『悪魔を憐れむ歌』で大団円の余韻に浸れるなんて、ストーンズファンならずとも狂喜乱舞だ。

大人に成長したクルエラと、宿敵バロネス(エマ・トンプソン)が、初めて対峙する場面で流れるディープ・パープルの『ハッシュ』や、クイーンの『ストーン・コールド・クレイジー』など、他にも見どころ、聴きどころが随所に用意されていて、ハード・ロック好きには堪らない。

多分、楽曲使用料がとてつもなく高額なのだろう。『胸いっぱいの愛を』(レッド・ツェッペリン)や、『カム・トゥゲザー』(ザ・ビートルズ)がカヴァー・ヴァージョンに置き換わっているのはご愛嬌だが、ストーリーの趣を異にするものではないので、まずはひと安心。

本作『クルエラ』、なんと言ってもヒロイン像が新しい。登場する“男ども”に、まったく媚びる様子がない。前述の『プラダを着た悪魔』でもヒロインのアンディには、ネイトという恋人がいて、デートと仕事の板挟みであたふたするシーンがあった。キャリアと恋愛を天秤にかけるような演出がまかり通っていたのだ。

だがクルエラは徹頭徹尾、自分を貫き通す。そこに男の出る幕はまったくない。苦楽をともにしてきたジャスパーやホレイスは、あくまで腐れ縁でつながった仲間であり、疑似家族の延長。これまでのセオリーからいけば、ジャスパーと恋仲になっても良さそうななものだが、クルエラの圧倒的な才能の前では、恋愛など飯の種にもならない些末な事象に過ぎないのだろう。

男に媚びる女性像を、世界に流布しつづけてきたディズニー。そんな彼らが『クルエラ』を手掛けたことに、既存のジェンダーの枠組みを超えようとする覚悟を感じた。ディズニー・プリンセスに「クルエラ・ド・ヴィル」が違和感なく加わっている図式は、そう遠くない未来なのかもしれない。

『クルエラ』の監督は、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』で名を馳せたクレイグ・ギレスピー。余談だが、『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』の主演は、『スーサイド・スクワッド』でジョーカーの恋人「ハーレイ・クイン」を好演した、マーゴット・ロビー。この経緯から推察するに、クレイグ・ギレスピー監督は、生来ヴィランの扱いには長けているのだろう。これほどまでに魅力的なクルエラを誕生させたのだから、当然の帰結だ。

悪女頂上決戦…バロネスの牙城に果敢に攻め込むクルエラの勇姿は、映画史屈指の眉目秀麗さで観客の心に永遠に刻まれる。決して見逃してはならない。刮目せよ!





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