不思議という事
「詩としての哲学 ニーチェ・ハイデッガー・ローティ」という本を読んだのだけれど、著者の実存スタイルが自分と合わなかったので、全然ピンと来なかった。この人は日本では珍しくロックやバークリーの研究書を出してくれていて助かるのだが、哲学者ではなく哲学研究者であると思う。
後期のハイデガーは詩に傾倒するが、著者は「ハイデガーは存在という特権者を置くことで、自分を特異な地位に置いている」と批判している。
ハイデガーは確かに「存在からの声」として「思索」と「詩作」を位置付けているが、この「存在」を「存在者」と誤解することを何度も戒めている。ここで冨田氏が「存在」を「神」のような特権的なものであると考えているということは「存在」と「存在者」を峻別する「存在論的差異」を理解していないと思われる。「存在」はモノでも神でもない。特権でもない。誰でも「存在」しているのだから、特権であるわけがない。むしろ全員に配布されている。だが「存在」というものは掴みどころがないので、「存在」について語れば、「わけの分からないモノ」について語っていると思われても仕方がない。「存在していること」は神秘であり不可解なのであるから、その不可解さが分からない人には何を言っているかサッパリ分からず、それを語る人を「特権者」だと考えても仕方がないと思う。だが、「全ての人、物、動物」が「存在」しているのであって、存在において特権者はいない。
この冨田さんは海外のエリート大学にいるし、リチャード・ローティのような大物哲学者も似たような間違いをおかしている。どれだけ知性があっても「存在は不思議であるから考えることはできない」ということを理解するのは難しいらしい。存在論的差異を本当に理解するのは難しい。
大嶺顕師の本に「仏法不思議」について書かれていた。ちょっと量が多くて引用文を探せないのだが「キリスト教の神は、考えることを禁止するが、仏法の不思議はいくら考えても考えつくせないという意味だ」というようなことを書いていた。この言葉が印象に残っていて、数年経った今でも覚えているぐらいなのだが、その通りなのだと思う。
「不思議」というのは文字通り読むと「思議ができない」ということになる。思い計ることができない。なぜできないのかというと、それについて何も「分からない」からであるし、「その中」で考えるしかないからだと思う。「存在」の外に出ることは絶対に不可能であるし、そもそも「考え」も「存在」しているのであるから、「考えつくす」ということがあり得ない。
僕は今まで哲学書を読んだり宗教書を読んでぐずぐずと考えていたが、釈迦の手のひらというか、「存在」の中でぐずぐず悩んでいた。「存在していること」自体が不思議であり神秘なのに、その存在をしながら考えているのだから落語みたいだ。
「不思議」ということに極まる。考えつくすことができない。「存在についての決定的な定式」が発見されたとして、それも「存在している」のだから、存在を尽くすことはできない。
最近急に詩作を始めたが、もう考えることがないからだと思う。「美」と「真」は相即していると思っているので、美の方へ向かってしまった。
芸術家の友人が「フェティシズム」という言葉を使っていたのが印象的だった。「好きなもの」しか創ることはできない。そしてその「好きなもの」が美であるなら真であるのだと思う。
この文章も妙に頭に残っていたが、「語る」や「考える」ではなく「示す」しかないのだと思う。
不思議については示すしかない。だから「言葉」や「美」についてもまだまだ考えたい。
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