精神分析と仏教1

 斎藤先生がラカンと仏教を一緒にするなと書いてた気がするけど、どっちも臨床心理学だから似てくるのは仕方ないと思う。確かに仏教にはエディプスコンプレックスも性一元論も存在しないが、根幹が似ていると感じる。生物学的な傾向が強いフロイトよりも、言語学的アプローチをしているラカンの方が仏教に近いと思う。ラカニアンの人には概念操作が雑だと言われそうだが、使えそうな概念を借用するのは構わないと思う。というかこういう作業が個人的に必要だと思うので…。

 精神分析と仏教について書いてたら膨大になりそうなので、シリーズにしようかな。自分の勉強のメモにもなるし。

 ラカンで有名なのは「鏡像段階」だ。生まれたばかりの赤子ははっきりした身体イメージを持っておらず、身体が欲望によって裁断されているように感じる。その赤子が「鏡」を見ると、鏡の中の身体イメージがそのまま「自我」になる。これは一見するとハッピーな物語だが、実は「自己イメージ」が「鏡の中の像」という「本質的には他者」になってしまうというまずい物語だ。これが「嫉妬」の起源になる。「自我」というのは鏡という「他者」によって構成されてしまったので、自己にあるのか他者のものなのか曖昧になる。そこで、自分と似たような人(鏡像)を見ると、嫉妬で狂いそうになる。「俺か、お前か」という双数関係になる。
 僕も、昔はチヤホヤされてるメンヘラ男にやたら嫉妬していた。「そこは俺の位置のはずなんだからどけよ」ということだろう。
 この「鏡像イメージ」を自己と他者で奪い合うというのは、SNSの自撮り界隈を彷彿とさせる。鏡像というのは視覚的イメージなので、自撮りでマウントをするのにはピッタリだ。

 仏教に当てはめると「無明」という概念だと思う。「自分のことについて何も知らない」ということ。セルフイメージというのはナルシズムの世界なので「知りたくないことは無視をする」という特性がある。実は母親のことを死ぬほど憎んでいたとしても、それを抑圧して「語りたいことを語る」ようになる。精神分析というのは、分析主体が「語りたいこと」に切れ目を入れて無意識を露出させる営みらしい。

 「僕はこういう人間なんです」「ああいう人間になりたい」「あいつより俺のほうが偉い」の核には幼い頃の「鏡像体験」があり、一生それが反復される。「自我」は「他者」に浸食されている。
 仏教は、凡夫がなぜ「無明」なのかという説明はしていないが、ラカン的にいうと「自我は本質的に他者だから」になるだろう。
 ラカンの本領は言語と主体についての考察だと思うけれど、長くなりそうなので次があれば書きます

勉強したいのでお願いします