冷笑について 冷笑批判

 僕は冷笑系である。パスカルとかニーチェとかが大好きな時点で、冷笑家だと思う。冷笑の定義「『マジ』になっている人をバカにする」

 パスカルはキリスト教、ニーチェは超人思想、及び自己言及によって冷笑のダサさを回避しているが、回避できないと、シオランみたいに、この世は生きるに値しないといいながら生き続けるというダサい人間になってしまう。

 現代の冷笑の起源は「虚無」と「ルサンチマン」だと思うが、ルサンチマンはともかく、虚無は「事実」であるので、回避しようがない。「この世に生きる意味はない」というのは事実であるから、冷笑にも一定の理はある。
 政治に躍起になってる人や、創作者、意識高い系などの「マジ」になっている人をバカにする。だってこの世に「マジ」になるに値するものなど存在しないから。

 これは仏教の態度と全く同じだ。仏教の言葉で言うと「全てのものは執着するに値しない」となる。ブッダは冷笑家なのか?

 冷笑家の悲劇(喜劇)は、肉体を持っていることである。何もかもをバカにするのだが、肉体、欲望を持っている限り、自分も「マジ」にならざるを得ない。女、金、権力。冷笑も結局、他人に優位に立ちたいという権力意識でやっているので、冷笑というのはメタレベルにはない。「マジ」の場の中で「冷笑」という役割を担っているだけである。冷笑家は「冷笑」に「マジ」になっている。覚めきっていない。

 何にも夢中にならない。ブッダは欲望を超越しているので、マジにならない。夢の中にいない。ブッダは冷笑ではなく、微笑する。

 冷笑は誠実ではない。微笑しよう

勉強したいのでお願いします