家族とか性的なものとかについての試論

 あとから振り返って「自分ってこういう興味があったからこういう本を読んでいたんだ」と気づくことがある。最近吉本隆明や精神分析、ドゥルーズや儒教の本を読んでいたのだが「家族」という線で繋がれていた。

 近代というのは「国家」と「個人」が直接に結ばれる。その中間に共同体がないほうが管理しやすい。最近やたらとマイナンバーカードを推されるが、そりゃ管理しやすくなる。個人と国家が直通する。
 地縁的な共同体は壊れ続けているし、後々にもう完全になくなると思う。僕が住んでいる田舎でさえこれだから、都会へ出ればもう隣人の顔を知らないのが当然なんだろう。

 近代社会が共同体を粉砕していく中で、残された領域が「性別」であった。ヒトは生物であり、有性生殖である。「個人主義」というソフトウェアを導入していても、身体というハードウェアはもうどうにもならない。ラディカルなジェンダー論では流動的な性という概念があり、もはや二元論ではなく、性別は多元なものらしい。「頭の中」でいくら考えてもそうだろうけれど、現実には身体がある。先史時代から、その二元論は崩されたことはなかっただろうが、これから崩れるかもしれない。別に崩れてもいいんだけれど、崩したあとに何が残るのかと考えると裸体の「個」なのだろうが、この個は全ての属性を剥がされた、何にも所属していない裸の個なので、少し気持ち悪い。

 儒教やドゥルーズは読んでいる最中なのだけれど、結構思うところがあった。 
 儒教では祖先崇拝が行われる。そして「孝行」が何よりも重視される。なぜかというと、連綿と続いてきた「命の鎖」があり、自分もその一端を担っているからだ。論語に「曾子」という人物が死に際に「身体に傷一つない、両親から授かった身体に傷がなくてよかった」という場面があるらしい。僕が子供の頃は「親からせっかく貰った身体なのに整形なんかするな」という言説があったが、儒教的な思想だったんだろうか。
 「孝」を中心とした生命論がある。父は先祖を供養し、自分は親孝行をし、子供を残す。祖母はこういう価値観で生きてるっぽい。この前「死んだらどうなるの」と聞いたら「みんなに会えるに決まってるでしょ」と言っていた。
 
 ドゥルーズの代表作は「アンチ・オイディプス」だが、オイディプスというのは「父・母・子」の三角形のことだ。これを徹底的に批判している。正直難解で読むのに苦労してて最後まで読解できていないが、この三角形を否定するなら、残るのは人工授精ぐらいじゃないか。オルダス・ハクスリーみたいな世界観になる。

 ロマンティック・ラブイデオロギーについては識者が様々なことを言っているが、「恋愛感情」っぽいものは普遍であるものの、近代の恋愛というのは騎士道から始まったと何かの本で読んだ。騎士道というのは王女に恋をする騎士の物語で、もちろん騎士と王女は結ばれることはできないんだけれど、それでも王女に忠誠を尽くすみたいな感じらしい。僕は恋愛というのはこのような「権力の不均衡」がないと成り立たないと思う。近代小説を読んでいると、男尊女卑の価値観が色濃いが、男尊女卑でないと、恋愛は成り立たない。「別れるのは自由」という条件の上で、個人と個人が同等の権力を持って長年連れ添うというのは相当厳しい。だからといって女性の地位を下げるわけにもいかないので、今後は結婚はもっと減るだろうなと思う。

 近代というのは人が神になることだから、当然有限性は全て解消されなければならない。「不老不死」の研究も世界中でされているらしいが、当然だと思う。「性別」というハードウェアが近代と対立するのは当然であるし、「性」のような「生物」としての根本条件について議論が絶えないのは当然だ。このまま「近代」が「進歩」するなら、性の問題は人工授精やバーチャルセックスなどの技術によって解消されて、個人は今よりも孤独になると思う。そして、今よりも生きる意味が分からなくなると思う。

 こうやってごちゃごちゃ考えるのが好きなので、儒教(特に孝経とか)や吉本隆明の思想などを勉強しようと思う。どうせ勉強しても、人間はどんどん孤独になっていくような気がするので、僕はまあ坐禅しようと思う。孤独への一番の特効薬は仏教だと思う。

勉強したいのでお願いします