仏教の本質と新興宗教 観

 新興宗教についての本を何冊か読んだ。特に田原総一朗の『創価学会』は本当に面白かった。現代日本のスピリチュアリティについて知ったり考えたりしたいので、各々の新興宗教やオウム真理教事件などについても勉強したい。

 鮮明に覚えているエピソードがある。社会の授業で世界三大宗教があると習った帰り道に「神様が1人だけなら信じられるけれど、3つも神がいるのはおかしいから信じられない」と友達と話した。仏教と一神教は違うが、相対主義の世界で何かにコミットするということが不可能に思えた。
 
 哲学は批判や対話による弁証法によって進歩していくが、宗教は神がかった教祖の言葉が絶対とされる。一神教には聖書やコーランがあるし、新興宗教にもお筆先やら様々にあるらしい。どれが正しいのか決められなくないか?
「法華経に法華経は正しいと書かれてあるから正しい」「聖書に聖書は正しいと書かれてあるから正しい」「総裁が正しいと言っているから総裁が正しい」

 相対主義の社会で「俺は正しい」を言い張るには、相手を折伏、改宗させる必要がある。だから新興宗教は鬱陶しい。

 混沌とした相対主義の中で宗教をやるには2つの道しかないと思う。ラーマクリシュナの道と、クリシュナムルティの道だ。どちらも近代のインドが生んだ。
 
 ラーマクリシュナは、全ての神は同じだという。一つの真理が様々の形をとって現れたものが諸宗教であり、別にどれを信仰しても変わらない。これは確かにリベラルで現代人が受け入れやすい主張だと思う。

 クリシュナムルティは逆に「何も信じるな」という。徹底的な懐疑主義だ。政治思想もイスラム教もキリスト教も仏教も日蓮も親鸞も信じない。自己の中の「意見」や「信念」を捨てろという。

 釈迦は基本的にクリシュナムルティと変わらない。仏教の教えを一言でまとめると「四聖諦」とか「何物にも執着すべきではない」とか言われるが、僕は「観」だと思う。僕にとって仏教の生命線は「観」である。釈迦の教えは一言で言うと「観なさい」だと思っている。瞑想という観る練習をしながら生きていると「無常」や「無我」などが観えてくる。「教え」や「神」などは頭が創り出した「観念」に過ぎないことも観えてくる。別に仏教と呼ばなくても「観る営み」で良い。
 人間はバグが多い。最近はバグの要因が進化心理学的に明らかになってきている。もともと幸福になるように設計されていない上に、現代の生活が石器時代と合っていない。「観る営み」をしていると、そうしたバグが自然と修正されてくる。僕は心配性が凄かったのだが「観」をしていると「心配って百害あって一利なしだな」ということが腑に落ちて、心配しなくなった。
 幼少期に植え付けられたバグを一生繰り返している人をよく見る。「よく観ればいいのに」と思う。

 僕は仏教が正しいとしか思えない。なぜなら全ての教えや見解は過ぎ去るからだ。「仏教が正しいとしか思えない」も過ぎ去る。もう何も考えなくていい
 

勉強したいのでお願いします