ウィトゲンシュタインと禅 哲学という病気

思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲けらるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。

西田幾多郎

 ウィトゲンシュタインの哲学のモチーフは「哲学的問題の解決」ではなく、「哲学の問題は幻想に過ぎない」ということを示すことだ。前期は論理学、後期は言語ゲームという概念を使ってそれを示そうとした。

 後期の「哲学探究」という書物はとても面白くて、哲学の罠にハマっている人とウィトゲンシュタインの対話という形になっている。いろいろな概念が俎上に載せられるが、例えば「言語は対象を表すものである」という考えが批判される。ふつう「リンゴ」と言えばあの赤い果物を指しているように見えるが、「リンゴ」の「意味」はあの赤い果物を想像することではない。「リンゴを食べたい」とか「リンゴを取って欲しい」とか、言語は「使用」によって、意味が定められる。
 「痛い」という言葉によって、哲学的問題がでっちあげられることもある。「痛み」という感覚は、当事者にしか感じられない。僕の痛みは他の人が感じることができない。だから「自分が痛みだと思っているものは、他の人と同じものなのだろうか?」という問題が生じる。ウィトゲンシュタインは、「痛い」の使い方を考えろ、という。他人がお腹を抱えながら「痛い痛い」と言っていれば、その行いは普通に理解できる。そうすると人は「大丈夫?トイレ行く?」と言うだろう。なんの問題もない。
 「自己と他者の痛みは同一か?」なんてことは「痛い」という言葉の「使い方」に入っていない。

哲学者は問題を治療する。そう、病気を取り扱うように。

ウィトゲンシュタイン

 禅の話。弟子が「祖師西来意?」と質問する。達磨がインド(西)から来た理由、つまり仏法の極みを教えろと言う。そうすると師匠は弟子をぶん殴る。なぜか?「哲学的な問題」など存在しないからだ。ウィトゲンシュタインの問題意識と似ている。

僧が尋ねた、「仏法の究極のところはどういうものですか?」師はすかさず「かあーつ!」と一喝した。僧は礼拝した。師は云った、「この坊さん、結構わしの相手になるわい」。

臨済録

 「仏法の究極のところ」なんてものは、存在しない。そういう形而上学を考えるから、不幸になる。「仏法とは何か?」と「問題」を作り上げる「心」が諸悪の根源なので、その心を叩き潰すために、臨済は喝!と叫ぶ。
 そもそも原始仏教でも、釈迦は「世界に果てはあるか」とか「死後の世界はあるか」とかいう問いに、沈黙で答えた。そういう「問題」を作りだす心が問題=苦しみを生む。

 善とは何か?美とは何か?生とは何か?そんなものに答えはない。
 ある禅師は、弟子に何を聞かれても指を一本立てるだけだったらしい。「生きる意味とはなんですか?」と問われて指を一本立てる。これは「考えるな、見よ!」ということだ。「問題を作らなかったら、ただ指が一本あるだけじゃないか、それでなんの不満があるのだ」という意味だろう。考えるな、見よ!というのは「哲学探究」の中にも度々出てくる。

 生きる意味というのは疑似問題だ。だから喝!と答えるしかない。考えるな、聞け!
 思索などする奴は、緑の野にあって枯草を食う動物の如しだ。

語りえぬものについては沈黙しなければならない。

論理哲学論考
ウィトゲンシュタイン

勉強したいのでお願いします