真理の探究をしている人は仏教をした方が良い

 僕は「真理」が知りたかったのだけれど、どの哲学書にも書いてなかった。「げんにび」という本にだけ書いてあった。真理の定義は様々にあると思うけれど「普遍」で「一番のメタ」で「疑えない」ものだと思う。仏教の魅力を語る、ということをブログのテーマにしたいんだけれど、自分がなんで惹かれたのか率直に書いたほうがいい気がする。

 サルトルが現象学に出会った時の有名な文章がある。

アロンは自分のコップを指して、
「ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!」
サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。

女ざかり

 釈迦ならば、コップを指さして「これが真理なんだよ、それ以外に何もないんだ」と言うだろうと思う。僕は感動で青ざめた。

 目の前の様子がその通りにある。僕の目の前にはPCと文字が見えるが、それがその通りにある。右を向けばベランダが見える。読者はスマホで文字を読んでいる。今はそれしかない。その映像だけが存在する。無常なので映像は変化していくが、ずっと「今」しか存在せず、その映像が狂うことは絶対にない。手のひらを見ていたのに、急に手のひらが足に変化するようなことはない。

 お腹が痛い時はお腹が痛い。楽しい時は楽しい。A=Aというトートロジーは絶対に正しい。暑い時には暑い様子がある。
 今の様子というのはこういう感じだ。

 マッハという物理学者が描いた自画像だ。この「自画像」だけが、無常として存在する。マッハが右を向けば本棚が見える。山へ行けば土が見える。その様子がある。

 「その時の様子がそのようにある」ということは絶対に疑えない。
 
 サルトルを読むとする。

存在と無

 読んでいる最中は、「この様子」しか存在しない。読み疲れたなあと思って目を瞑れば「真っ暗」という映像がある。サルトルが書いてあることに対してはいくらでも疑うことができるが「読んでいる最中は読んでいる映像だけがある」ということは絶対に疑えない。
 目の前のコップに対して「これは夢だ」「感覚だ」「現出だ」といくらでも言葉で注釈することはできるが、コップを見ている時にコップが見えるということは疑えない。言語以前にまず見ている。
 サルトルの哲学が真理だと証明されたら僕は驚くだろうが、驚いた様子だけがある。驚いた後にチョコを食べると、チョコの味の様子だけがある。

 聖書が正しいとする。僕は信じていないから、死ねば煉獄とか地獄にいったり無になったりするのかもしれない。ただ「地獄で鬼に拷問をされている時はその様子だけがある」ということは変わらない。「その時にその様子がある」というのは何をしていてもどこにいても絶対に変わらない。

生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
生も一時の姿であり、死も一時の姿です。例えば、冬と春のようなものです。人は冬そのものが春になるとは思わないものであり、また春そのものが夏になるとは言わないものです。

正法眼蔵

 生の時は生があって、死の時は死がある。人生という映画は狂うことがない。春の時は春があり、冬の時は冬がある。

 今はこの様子がある。(周りにキーボードとかペットボトルも見えるが)

今の様子

 言語化するのが難しい。気になった人は「げんにび」をぜひ読んで欲しい。YouTubeに法話もある。

仏法は宇宙・大自然の絶対事実であって、思想(人間の頭脳が考えた産物)ではない。思想は人間の欲望から生まれる。どのように正しいと信ぜられ考えられた思考でも、それが考えられたものである以上、それらは考えられた「正」であり、絶対に正しいということはあり得ない。人間がものを考えるその真相は、利己的・勝手主義である。仏道は人間が考えたものではなく、大自然の真の事実である。

酒井得元

勉強したいのでお願いします