なぜ賢い奴が偉いのか

 人は「人間は動物より偉い」と豪語するが、なぜ人間が動物よりも偉いのかと言えば「言葉を話せること」の一点に尽きる。「言葉」がなければ「偉い」という概念が成り立たない。犬がもし話せれば「人間ってなんでこんなにドン臭いんだろう」と話すだろうし、蟻が話せれば「我々が他の生物を数で圧倒している」と自慢するだろう。「知性」というのは「偉い」ということの条件である。

 最近やたらと「言語化をしろ」みたいな言説を見るが、なぜ流行るのかというと、自己啓発本を書くような人は「言語化」が好きだし、自己啓発本を読むような人も「言語化」が好きだろうからだと思う。本も意識高い記事も読まない人は、「言語化」という言葉に触れずに黙々と生きている。

 プラトンの「ゴルギアス」を久々に読んだ。「弁論家」とソクラテスが対決するのだが、弁論家は「口が上手ければ死刑も回避できるし、仲間の命を救うことができる。こんなに得をする術はない」と自慢するが、ソクラテスは「航海術を知っている人だって自分や他人の命を救うことができるが、別に自慢したりしない」と反論する。「弁論家」は「喋り」や「知性」を職業にしているので、「俺の職業は偉い」と吹聴することができる。船頭は自分の仕事を立派にこなすが、「喋り」を職業としていないので、自分の「凄さ」を構築することができない。

 芸人やHIPHOPが民主主義社会で偉そうにするのは「喋りが上手いから」だ。もちろん政治家も同じだ。喋りが上手い奴は「俺は凄い」という論を説得力を持って話すことができる。喋りが下手な人は「俺は凄い」という論を構築できない。

 低学歴よりも高学歴が「偉い」のは、人間が動物よりも「偉い」のと同じだ。高学歴の人間の方が「高学歴が偉い」という論を創りやすい。勉強ができるんだから当然だ。

 ただ、言葉が上手い奴が本当に「偉い」とは限らない。ヒトラーを見れば分かる。ヒトラーは口八丁で総統に上りつめたが、人格も人生も破綻していた。一方で、無口だけど高潔な人というのはたくさんいるだろう。

 知性がある人は「知性がある奴が偉い」という論を構築しやすいが、知性のない人は「知性のない奴こそ偉い」という論を構築しづらい。「知性がある奴が偉い」という風潮はこの一点に尽きると思う。

 僕は知性や言語というのは、ほとんどが「自己正当化」や「合理化」だと感じる。知性と「正当化」の能力は比例する。が、知性と「偉さ」は比例しない。別に人間が特別偉いわけでもないし、賢い奴が偉いわけでもない。

欠けていて足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。

ブッダ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?