死に逆らって生きる
死はどこにもあって、どこにもない。散歩をしている最中にトラックが通りかかると、死を感じる。駅に電車が近づいてくると、死を感じる。青酸カリをずっとポケットに入れていたら人間ってどうなるんだろう?
最近、ずっと時間について考えている。時間についての本なども読んだが、全然ピンと来ない。
パルメニデス「あるはある、ないはない。だから運動はない」。きわめて論理的だ。
ヘラクレイトス「万物は流転する」。その通りだ。
矛盾があるんだろうか?アリストテレスは世界を始動させた神を「不動の動者」と呼ぶが「時」こそが不動の動者ではないだろうか?
フッサールは「流れつつ立ちとどまる」と言っている。西田幾多郎は「永遠の今」だ。
タバコを吸っている人間が「緩やかな自殺」だとカッコつけているのをよく見るが、普通にみんな死の途上にある。「時」は眼に見えないが、確実に「老い」という年輪を刻む。向かい風だと思う。死から風が吹いてくる。身体は傷つき、朽ちていく。傷つきながら歩いていき、途中で力つきる。ゴールはない。
哲学は悲哀から始まるというのは分かるな。他人の死を経験することはできない。死体を見ることができるだけ。自分の死も経験することができない。死んだ時には主体が存在しないから。であるならば「死」なんて本当にどこにも存在しない。誰も経験したことがない。ただ「時」が身体に死を刻むのが見えるだけだ。父親に白髪が増えてきた。人が老いるのは哀しい
勉強したいのでお願いします