学の体系 アフォリズム 仏教とニーチェの知

 物凄く影響を受けた本を思い出してみると「二十歳のエチュード」「善悪の彼岸」「重力と恩寵」「パンセ」「禅に聞け」「ダンマパダ」「哲学探究」など、アフォリズムの文体で書かれてるものばかりだ。他にも芥川の「侏儒の言葉」やシオランの著作なども好きだ。

 なぜアフォリズム形態が好きなのか、ヘーゲルを読むことで分かった。ヘーゲルというのは「体系の哲学者」と言われる。「絶対に正しい体系」を作り上げようとした。ヘーゲルによれば、正しい体系というのは「始め」と「終わり」がくっついた円のようなものになる。ただヘーゲルが精神現象学で辿り着いた「絶対知」がいまいちなんなのかよく分からない。
 「精神現象学」はヘーゲルの構想していた学の「まえがき」として書かれたものなのだが、あとで精神現象学自体が破棄される。「それ自体で完結している体系」に「まえがき」は必要ないからだ。

 ヘーゲルの体系知は失敗したと言われているが、そもそも「体系知」というものに問題がある。「その体系で完結している真理」というものを「何が保証するのか」という謎がある。体系自体が宙に浮いているんじゃないか。

 これは古代ギリシャのゼノンが主張した「場所のパラドックス」と同型だ。「全ての物が場所にある」とすれば、例えば僕は「部屋」にいて、部屋は「家」にあり、家は「地域」にあり、地域は「日本」にあり、日本は「地球」にあり、地球は「宇宙」にあり、宇宙は?
 原文はこうであるらしい。

存在する物は、すべてある場所にある。それ故場所は存在する。そうであるなら、場所の場所も存在しなければならない。場所の場所の場所と、限界がない、故に場所は存在し得ない。

 最近もマルクス・ガブリエルの新書がAmazonで人気なのを見たが、あの人の「世界は存在しない」という哲学書もこのパラドックスと同型である。「全てを包括する場所」というのは存在せず、個々の「芸術の場」や「科学の場」や「生活の場」があるだけだと主張する。だからあれは体系の哲学ではなく、多元論だ。

 「全体」というものが存在しない。外部がない。僕は西田幾多郎の論文は難解すぎてまだ全然読めてないのだが「絶対無の場所」というのはこの辺の消息から出た概念のように思える。ラカン風に言うと「メタ言語はない」「他者の他者はいない」となる。ラカンはこの「保証された全体知」がないことと「親が不完全であること」を重ね合わせている感じがある。

 ウィトゲンシュタインの哲学探究は主に「言語」についての「洞察」を集めたものだ。600個ぐらい洞察が載ってある。どれがウィトゲンシュタインの主張なのかも判然としない。ウィトゲンシュタインがあのような書き方をせざるを得なかったのは「言語の意味は日常生活における使用である」というテーゼを体系化することは不可能だったからだと思う。
 ニーチェも短い断章が並ぶスタイルだが、「真理はない」と言っておきながら真理の体系を創る文体はありえないからだろう。

 仏教においては、後世に「縁起思想」や「十二因縁」などの煩瑣な教義が整備されたが、僕は釈迦は説いたとしても「四聖諦」と「無常・苦・無我」ぐらいだったろうと思う。釈迦は「目の前にいる人」を重視して、その人の機根にあうように説法をした。これを対機説法と言うんだけれど、対機説法と「体系」というのはどうも具合が悪い。対機説法をするなら体系は必要ない。そもそも「体系」も無常だ。

 仏教においては「智慧」が重視されるが、現代風にいうと「洞察」になる。小さい智慧も大きな智慧もある。「心というのはコントロールできない」だとか「ずっとあった怒りは幼少期のトラウマに起因していた」だとか、瞑想をしているといろいろ智慧が湧いてくる。全然体系化されていない。「生きた」ものだ。

 人間が生きている以上、言葉は死んだ体系になってはいけないんだと思う。

 「どういう文体で書いたらいいのか」ということをずっと考えているんだけれど、アフォリズムが良いかもしれない。20代前半の頃に書いていたアフォリズム集があるので、それに書き加えて行こうかな。アフォリズムを書く→その発想をブログで詳説する、みたいな感じがいいかもしれない。
 少し青臭くて恥ずかしい。うつ病で虚無主義者だった。たまに追加しようと思う。

 あらためて読み直すと今と似たようなことを拙い言葉で言っているものも多かった。ニーチェの「思想というのはその人固有の胚珠が花開いたものだ」という言葉は恐らく正しい。

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