仏教徒になるということ
僕は自分を「仏教徒」と名乗っている。僕は幼少期から科学教育を受けた影響と、西洋哲学の勉強を行ったこと、日本の新興宗教が未曾有のテロ行為を行ったことから、宗教というものに警戒感や懐疑を抱いている。今もである。
輪廻や業などの前近代的概念は信じていない。観音菩薩が実在するとも思っていないし、文献学的に言って釈迦の言行がそのまま残っているとも考えていない。
仏教に惹かれたのは、信仰を行わずに「死の問題」を解決できる唯一の解法だと思ったから。けれど、別に仏教徒になる必要はない。仏教の修行方法を勉強して、毎日コツコツ瞑想していれば、仏教徒にならなくても全く同じ効果が得られる。現代では「別に仏教徒じゃないけど、マインドフルネスは科学的に効果が実証されているから続けているよ」といった方が科学的だし懐疑的だし格好いいと思う。
「仏教徒」になることの核心は「生涯を修行にすること」だと思う。そして修行の目的は「お釈迦様のような人になること」だ。具体的に言えば「智慧と慈悲の限りない人」になること。
「精神的に向上心のないものはばかだ」という夏目漱石の言葉があるが、ないものがばかとまでは言わないまでも、僕は精神的な向上心を常に持ちたい。精神的な向上心というのは、自分の心を平安に保ち、他者にも優しくできるようになることだろう。
「精神的に向上したい」というのは僕にとって自明のことで、そのために僕は本を読み漁っていたが、幸福にもなれないし、優しくもなれなかった。「修行」という選択肢があると知った時は、凄い嬉しかった。修行なんて聞きなれた言葉だけれど「修行すればいいのか!」って気づいた時は眼から鱗というか、「なんでこんな簡単なことに気づかなかったのだろう」と不思議だった。
僕は「戒」が好きだ。最近読んだ「身体論」という本に書いていたが、もともと戒というのは「~すべからず」という禁止の意味ではなく「我~せず」という積極的な意志らしい。誓いと言った方が分かりやすいか。
殺さない、盗まない、不倫しない、嘘をつかない、酒を飲まない。というのが在家仏教徒が守る五戒だ。「きわめて当然のこと」だと思える。お釈迦様が一番重視したのは、意外にも「嘘をつかない」ことだという。嘘をつく人間は、どんな悪も行うからだ。
「誠実な人間になりたい」「平安な幸福が欲しい」って誰しもが思うことじゃないだろうか?
ASDの人は「誠実さ」に異様に執着する人間がいるが、僕はそういうタイプなのだと思う。ウィトゲンシュタイン、原口統三、中島義道、カントも似たようなタイプだった。友人にも誠実さの塊のようなASDの人間がいるが、ASDの人間に嘘を吐かれまくったことがあるので全員に当てはまるわけではなさそうだ。精神の未熟さを、ウィトゲンシュタインは知性に、原口統三は自殺で解決しようとした。僕は未熟さを修行で克服したい。
僕はこの逸話が好きだ。
葛飾北斎のこの言葉も好きだ。
修行って言っても別に大したことをするわけじゃない。身体と心の状態に気づき続けるだけだ。そうすると、悩みや苦しみが減り、心に余裕ができて、他人に気を使えるようになる。最初の50時間ぐらいの瞑想はしんどいかもしれないが、瞑想というのは自転車の練習みたいなもので、どんどん楽になっていく。この50時間のせいで多くの人が挫折しているが、50時間頑張るだけでその後の人生の苦悩が減り続けるんだから、こんな上手い話があるだろうか?ゲームをする人やSNSをする人は、自分がどれだけそれらに時間を費やしているか見て欲しい。それに比べれば微々たるものだと思う。
ティク・ナット・ハン師の言葉に「苦しみ方を知っていれば苦しめる」というのがある。瞑想をすでに行っている人なら理解できると思うが、苦しみに気づきを向け続けることによって、苦悩を減らしたり、苦悩を理解することができるようになる。人生は苦悩だらけだが、苦悩が修行になる。生ごみが薔薇になる。
植物だって、何も教えられなくても天に向かってぐんぐん伸びて、花を咲かせる。みんな苦悩を減らして平安になりたいし、できれば親切になりたいと思っていると思う。個人的に、仏教はその目的に対する最適解だと感じる。修行しようよ!
勉強したいのでお願いします